泥とチョコレート

 更衣室で着替えを済ませてから店の外に出るともう夜が来てて駅へと続く道では赤青緑のクリスマスイルミネーションがきらきらと瞬いていたんだけど四歳の娘を保育園に預けてるあたしは急いで彼女を迎えに行かないといけない。子どもがいるから十六時までしか働けないって二年前の面接ではちゃんと伝えたのに忘れられてんだか所詮はしがないミコンノハハだとナメられてんだか今日も一時間ほどの残業を強いられて今に至るのだった。駅前ですれ違った娘と同じぐらいの年頃の男の子は左右を歩く両親それぞれと手をつないで幸せそうに嬉しそうに笑っておりそれを見たあたしは自分にもパートナーがいたらもうちょっと楽に暮らせたのかなぁなんて考えたが次の瞬間にはいちおう娘の父親に当たる男の顔がふわっと脳裏を過り死んでも会いたくないしもしも仮にいま目の前に現れたら一言でも発する前にぶっ殺してやるからなと思った。ああもう最悪だって気分で改札を通った。
 
 娘が生まれてからというもの自分の母親について思い返す機会がどうしても多くなった。あいつは自分の理想通りに育つ子どもだけを望んでいて誰にでも誰にでも自慢できる子どもだけを望んでいて誰からも羨まれる子どもだけを望んでいて細かな言葉遣いから心の内に抱く夢まで何もかも自分の思うままにコントロールできる子どもだけを望んでいたんだけどあたしはそれらの望みのうちたったひとつだって叶えられる子どもではなかったし叶えてやりたいと思うこともなかった。あたしが思春期に差し掛かった頃にはお互いのことをもうすっかり見限ってような気がする。二十歳の時に鬱病を患い自殺を試みて失敗したことがあるのだが病院で目を覚ましたあたしに向けてあいつは「やるならもっとうまくやりなさい」とだけ言い残してそのまま帰っていった。あんまりにも悪役っぽい台詞過ぎてその場ではもう笑っちゃったんだけどあたしにとって母親というのはそういう存在だった。
 
 混雑時間帯の快速電車に揺られながらあたしはこの中に泥を食べたことのある人間はいったい何人いるだろうかと思う。あたしは泥を食べたことがある。小学生の頃に「これはチョコレートだよ」とクラスメートから渡された泥の塊を本物だと信じて口に運んだのだ。それは信じられないほどニガくて生臭かったし口の中の水分を奪って粘り気を帯びると喉にまとわりつき飲み込むことも吐き出すことも簡単ではなくただただ苦しいだけだったんだけれど涙ぐみながらなんとか飲み下したあとでさえあたしはそれをチョコレートだと疑うことができなかった。なぜならその出来事以前に本物のチョコレートを食べた経験が一度もなかったからだ。あたしの母親は甘いものを食べると頭が悪くなるし太って醜くなるからと言いあたしにチョコレートを一度も与えなかった。「はじめてのチョコレートは美味しかった?」とあたしに泥を渡したクラスメートはにやにや笑いながら言いやがった。
  
 自殺未遂のあと逃げるように母親のもとを離れてからは代わる代わる何人かの男たちと暮らしを共にしたが平穏な日々はなかなか訪れなかった。いずれの男も最初は優しいのだけど一緒に過ごす時間が長くなるにつれ酒に酔って暴れるとか素面のままでも暴力を振るうとかクスリをやってるとかふたりで暮らす家に他の女を連れ込むとかギャンブル狂だとか金を盗んで蒸発するだとか邪悪な面が顕になっていくのだ。「あなたがそういう男性ばかりとつきあってしまうのは仕方ないことです」とかかりつけの精神科医はあるときわたしに言った。「親から愛されたと感じた経験がないからです。愛された経験がなければ愛がどんなものなのか分かりません。だから偽物の愛を持って近づいてくる男にいつも騙されるのです」そこまで言うなら騙されない方法も教えてほしかったんだけどな。現在は妻子持ちだと知らされないまま交際していた男との間に生まれた娘とふたり暮らししている。

 電車を降りた駅のホームには年明けに公開されるホラー映画のポスターが掲示されていた。あたしが高校生の頃から続いているシリーズもので今回公開されるのは七年ぶりの新作。前作は公開日に観に行ったが今作に関しては娘がいるから劇場で見るのはきっと無理だろう。保育園に着くと部屋に最後まで残ってた娘はあたしの姿に気付き駆け寄ってきてコートの裾をぎゅうと握りしめた。手を繋いで歩く帰路の途中で赤信号が青に変わるのを待っていると娘は鞄の中から朱い包み紙に巻かれた何かを取り出してあたしに手渡した。なんでも今日は保育園のクリスマスイベントでサンタに扮した先生からチョコレートを貰ったのだがあまりに美味しいので「ママにもあげたくて」とこっそりひとつ持ち帰ってきたのだという。あたしは包み紙を解いて中のチョコレートを口の中に放り込んだ。舌の上で解けていくそれはあたしがこれまで口にしたどんなものより甘く間違いなく本物のチョコレートだった。回送のバスが目の前を通り過ぎると弱い風が吹き目元に冷たさを感じた。

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