魔法使いと携帯電話

 学生時代の後輩が近所の家電量販店で携帯電話の販売員をしていることに気付いたのが先週の土曜日。それからというものわたしは特に買うものもないのにたびたび店を訪れては少し離れたテレビ売り場から彼女の姿を観察してしまう。今日の彼女は背中が丸く小柄なおじいさんの接客にあたっている。海外で暮らす息子や孫と話すために携帯電話をはじめて持つのだと話すおじいさんの言葉ひとつひとつに対し彼女はにこやかな相槌を返していく。携帯電話にできることや端末ごとの違いや料金プランなどについて説明する際はゆったりと聞き取りやすい口調で以て喋った。膝を軽く曲げ目線を相手と同じ高さに合わせると高い位置で結った長い髪が尻尾みたいに揺れた。

 夜空に浮かぶ円い月では二羽の兎が仲良く餅をつく。駅前のビジョンには“現代魔法の神様”と称される老女が世界ではじめて核廃棄物を消し去る魔法を習得したと速報が流れた。科学が魔法に取って代わり文明の主役となってから久しい。特別な才能がなければ扱えない魔法とは違い科学は知識と道具さえ揃えばその恩恵を誰もが享受できる。ホールケーキほどのカロリーを消費して部屋の温度を一度だけ上げられたり約半日の睡眠と引き換えにわずか数秒のテレパシーを送れる程度の魔法など現代ではもはや必要とされない。だがそれでも時代を代表するごく一握りの魔法使いは科学が今後百年経っても成せないであろう奇跡をたったひとりで社会にもたらし得る。
 
 わたしは魔法学校に通っていた。あの大学に入学してくるのは幼年期も青春期も魔法の訓練に捧げコンクールをはじめとする競争にも勝ち抜いた経験を持ち「我こそ世界を変える魔法使いになり得る逸材だ」と信じて疑わないような人物ばかりだった。だが実際にはそのほとんどが入学後もさらに続く競争に敗れ自身の凡庸さに失望し理想と現実との間にある落とし所を探ることに卒業までの時間を費やすことになる。毎年四百人ほど輩出される卒業生のうち魔法で「食べていける」人物の数は両手の指にも満たない。加えて卒業生の低い就職率は現代社会におけるほとんどの魔法がどれだけ不要なものであるかを端的に示している。就職した者も多くはわたしのように魔法とは無関係の仕事にしか就けない。
 
 彼女はわたしが三年生の年に入学してきた。鳴り物入りの新入生だった。なにせ彼女はあの“現代魔法の神様”の娘なのだから。魔法学校では上級生が下級生を加害する類のトラブルがしばしば発生した。自身の可能性を見限らざるを得なかった上級生が目立つ下級生に対して抱く嫉妬心はときに燃え上がりボヤを起こすのだった。だが本物の才能の前ではそんなやっかみなど何の意味も持つことはなかった。あるとき彼女は自由自在に雨雲を操り二重の虹を空に掛けてみせた。またあるときは植物に声を与え森を歌わせた。背中が見えないほど先を行く相手にひとは嫉妬さえできない。神の如き奇跡を目の当たりにしてもなお彼女のことを妬める者は誰もいなかった。

 だからこそ先週の土曜日にたまたま訪れた近所の家電量販店で携帯電話の販売員として働く彼女の姿をみつけたときわたしは自分の目を疑ったのだった。彼女ほどの抜きん出た天才が魔法から離れた場所で働いているだなんて未だに信じることができないし信じたくもなかった。彼女のような人物こそがわたしたちには選ぶことのできなかった道を歩んで行きやがては“神様”にも肩を並べる魔法使いになるはずだと誰もが確信していたのに。そんなわたしの動揺をよそに彼女が接客した小柄なおじいさんは満足の行く買い物ができたようだった。おじいさんは新品の携帯電話が入った紙袋を手首に提げ「ありがとうね」と彼女にお礼を言いながら店を後にした。 
 
 彼女は店の自動ドア付近でおじいさんを見送る。だが次の瞬間にはテレビ売り場にいるわたしのすぐ目の前に立ってにこやかに笑っていた。「お客様。なにかお探しですか?」とメーカーロゴの入った赤いエプロンを身に着けた彼女はほんのわずかに首を傾げポニーテールを揺らしながらわたしに声を掛けた。胸元の名札に記されている名前は確かに彼女のものだ。自動ドアからテレビ売り場までは五十メートルほど距離が離れている。いったいいつの間に移動してきたのだろう。店内のスピーカーからは軽快なテーマソングに乗せて現在開催中のセール情報が流れている。わたしは息を呑んだ。それから意を決し「わたしのことを覚えている?」と彼女に質問した。
 
 在学中にわたしは彼女を怒らせたことがある。当時のわたしと彼女とのあいだに交流と呼べるものはなかった。言葉を交わしたのも一度だけだった。だがその一度だけの会話でわたしは彼女を激怒させたのだ。わたしが何かを言いそれが彼女の逆鱗に触れた。それがどのような台詞だったかは思い出すことができない。思い出せないということはきっと軽い気持ちで口にした言葉だったのだろう。彼女の怒りは圧倒的だった。その激情は地面から駆け登る雷となり大気を突き破ると四十億年ものあいだたった一羽で餅をついていた月面の兎を二羽に増やしてしまった。わたしはただただ圧倒されるしかなかった。魔法と共に生きることを本当の意味で諦めた日だった。

「もちろん覚えていますよ先輩」と特別価格の値札がついた大型テレビの前で彼女はわたしの質問に答えた。彼女に訊ねたいことはもっと沢山ある。だがわたしが次の質問をするよりも先に彼女が言葉を続けた。「先輩こそ学生時代あたしに何て言ったか覚えてます?」わたしが首を横に振ると彼女は「覚えてないですよね」と言いながら右手の指をパチンと鳴らしてみせた。するとその音を合図にわたしの脳裏には彼女を怒らせたあの日の様子が鮮明に浮かび上がる。思い出した。わたしは彼女にこう言ったのだった。「あんたなんか魔法以外に何もできないくせに」と。「あんまりムカついたんで今まで忘れてもらってたんです」彼女は目を細め満足げに微笑む。

「あたし今でもあのときのこと根に持ってるんです。だから今日は魔法を使わず店でいちばん高価な携帯電話を先輩に売りつけてやります」彼女は白い歯を見せながらそう言うとわたしの手を取って携帯電話の売り場へいざなった。「もちろん値段相応の良い機種です。最新式ですよ」それから三十分ほどが経ち家電量販店の外に出るとわたしはさっそく買い替えたばかりの携帯電話を手に取りカメラを起動させ空に掲げてみた。円い月を画面に収めてからシャッターボタンを押す。画面を切り替え撮影された画像を確認する。一眼レフ顔負けのレンズを搭載しているいう最新式の携帯電話のカメラはかつて彼女が二羽に増やした月の兎の姿をとても鮮明に映していた。

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