星屑のニトロ

 ニトロの席は教室の廊下側でいちばん前の席だ。ニトロは透き通った肌と長いまつげを持つ物静かな少女だ。けれど時たま狂ったようにケタケタと笑い声をあげたり、机の上でカブトムシの身体を一節ずつもぎ取って分解したりしていたから、私たちクラスメートはニトロのことを気狂いだと考え、誰も彼女に話しかけなかった。私たちが過ごす教室には天井にある通気口から常に酸素が送り込まれていた。休み時間ごとに私たちは、いちばん後ろの席の周りに集まり、ニトロの噂をした。ニトロはおそらく火星の空気にやられ頭がおかしくなったこの実験の失敗例なんじゃないかと、彼女の噂をした。休み時間になるとニトロは自分の机の上でカブト虫を一節ずつに細かく分解していた。ニトロは誰とも会話をすることがなかった。ニトロのことは誰にもわからなかった。

 学校が終わると、私たちは透明なチューブの中を通る十八両編成のリニアに乗り込み、寮へと帰っていく。リニアの社内のホログラムではニュースが流れていた。明日は青の日です。という短いニュースがあった。青の日というのは、一年の中で火星と地球の距離がもっとも近づく日だ。透明なリニアのチューブの外には赤茶けた岩肌と薄桃色の空が見えそれらの景色が音速で流れていく。寮へ辿り着くと私は自分の個室に戻りケージの中で育てているクワガタ虫に餌のゼリーをやった。ケージの中には何種類かの植物が植えられ、地球の森林に近い環境が再現されている。もっとも私は、地球に居た時のことなんかほとんど記憶にないのだけど。

 今日も学校。若い女の先生が火星の歴史についてホログラムの映像を用いながら私たちに説明している。私たちは火星で暮らしている。火私たち星で暮らしている子どもは、ほとんどがみんな地球で親に捨てられて連れてこられた子どもだ。大人になるまでの教育と生活を保障される代わりに、火星開発計画の実験体にされてる。授業が終わるとニトロは今日も机の上でカブト虫を分解していた。ニトロはせっかく整った顔立ちをしているのに、細かくなっていくカブト虫の身体を見詰めながら、口元をニンマリと不気味に歪めていた。私たちはいちばん後ろの席の周りに集まってあの子本当に意味が分かんないよとニトロを悪く言った。今日は青の日だ。一年の中で火星と地球の距離がもっとも近づく日だ。だが今日が青の日であることを誰も口に出さなかった。地球のことなんかみんな考えたくないのだ。火星で暮らしている子どもはみんな親に捨てられた子どもだ。

 夜になると私は宇宙服を着込んだ。このあいだ買ったばかりのシュッとして身体が細く見えるお洒落な宇宙服だ。着替え終えると誰にも見つからないようひっそり寮から出て、キャタピラで動く旧式のバイクを駐輪場から駆り、少し離れた場所にある明かりの少ない小高い丘へと向かった。今日は青の日だ。私は地球をこの目で見たいと思った。覚えてないけど私の生まれた場所だ。だからあそこには私のパパもママも居るのだ。顔も声も何にも覚えてないけど、彼らだって何も好き好んで私を捨てたわけではないかもしれない。今日は青の日なのだ。私と、パパやママとの距離がいちばん近づく日だ。
 丘に着き、私はバイクを止めた。一面の岩肌でとても静かだったけれどよく見ると先客がひとりだけ居た。先客は羽の生えた宇宙服を着ていた。羽根の宇宙服は私に気付くと振り返って、こちらに近づいてきた。宇宙服のバイザー越しに相手の顔が見えた。長い睫毛だった。「地球を眺めに来たの?」ニトロは私に尋ねた。「あなたわたしと同じね」私の返事も待たずにニトロは微笑んだ。私は思わず、踵を返して逃げた。

 ニトロの席は教室の廊下側でいちばん前の席だ。天井にある通気口から酸素が吐き出される。休み時間になるとニトロは、分解したカブト虫の身体を、接着剤を使いながらプラモデルのように組み立て直していた。クラスメートはいちばん後ろの席に集まり、ニトロは気違いなのよと彼女の噂をしたけど、私はもうその輪の中には入らず、ひとりで教室から出た。ニトロの頭は狂ってなんかいない。(あなたわたしと同じね)私はもうそれを知っているけど、ニトロのことが前より怖くなった。ロのことが前より怖くなった。




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