猫と自販機

 こんばんは。
 今日も寒いですね。
 あなたと会うのはこれで二回目です。初対面の時のことをあなたは覚えていますか?
 あの晩わたしは、あなたに会った後、首に巻いていた真っ赤なマフラーで顔を半分覆って、線路沿いの黒い道を泣きながら歩いて帰りました。電車に乗れば二駅ほどの距離をわざわざ歩いたのは、明るい場所で泣き腫らした顔を、他の誰かに見られることを嫌だとおもったからです。
 家の近くまで来て、涙も少し落ち着いてきた頃、道の端からこちらを見つめていた一匹の三毛猫とたまたま目が合いました。ああ可愛いな。そう思って近づいたのですけど、猫は次の瞬間にツンと顔を背けて、わたしを避けるようにしてどこかに行ってしまい、だからわたしはその三毛猫と、あの猫のことをほんの一瞬でも可愛いと思ってしまった自分を、憎いと思いました。決して何にも媚びたりしないくせに皆から可愛がられる猫のことを妬ましいと思いました。 
  
 ところで前にあった時にもお話しましたけどわたし不感症なんです。つまりセックスをして気持ちよくなったことなんて一度もないんですよ。
 けれどわたしがこれまでに付き合った男のひとというのは両手で数えても足りないぐらい居て、セックスをした人数はそれより少し多く居るわけなのです。不感症にもかかわらずどうしてそんなに色々な男のひととセックスするのかというと男の人がそれを欲しがるからです。欲しがるものをあげれば、ひとはわたしのことを嫌いにならずに居てくれるし、わたしに対して優しくしてくれます。
 わたしは、誰にも媚びずに可愛がってもらえる猫なんかとは違って、相手に何かを与えなければ優しくしてもらえません。けれど優しくしてもらえるのならば何だって差し出せるし、それがこの、身体ぐらいで済むなら、それはとってもお安いことなのです。わたしにとって。

 わたしがこういうふうに考えるようになったのは、元をたどれば、小さい頃に妹が生まれたというのがはじめのきっかけでした。それまでわたしにだけ優しかった父や母が、妹のことばかりを可愛がって、わたしに構ってくれなくなるのではないかという危機感みたいなものを幼心に強く感じたのです。こんなことは何処の家庭でもあるような、ちっとも特別ではない、普通のことなのだけど、どうしてなのかわたしにとっては、その普通の出来事が酷く堪えたのです。
 だからわたしは、妹よりも少しでも多く、父や母から目をかけてもらえるよう、褒めてもらえるよう、家の手伝いを積極的にやり、言いつけられたこともほとんどすべて堅く守りました。だけどわたしがどんなにがんばっても、両親はわたしに対してでも、妹に対してでも、常におなじになるように平等に接したので、わたしは思ったのです。ああ! もともと自分は、やはり妹と比べて価値がすごく少なく、これだけ必死で頑張ることに酔って、ようやく妹と同じになれる程度なのだ! そういうふうに思ってしまったのです。

 ええ。今夜も寒いですね。とても寒いです。
 幼い頃から骨身に染み付いたこういう考え方は、わたしが学校に通うようになってからも変わりませんでした。もともとの価値が凄く少ない自分は、必死になって好かれる努力をしないと、きっと誰にも好きになってもらえないだろうという思いが、ずうっとあるのです。なのでひとからの頼み事は断られなかったし、皆が面倒くさがる仕事にも率先して手を付け、少しでもみんなが喜んでくれることをと、常に心がけて生活していました。
 すべてはみんなに好かれたかったから。
 すべては誰にも嫌われたくなかったから。
 価値の少ないわたしは、みんなよりたくさん好かれる努力をして、みんなより沢山差し出さなくてはいけなかったからです。

 ああ。今そこに猫が居ませんでしたか。
 自販機の裏にサッと隠れませんでしたか。
 それとも気のせいでしたか。
 兎に角わたしはいつもそんなふうに、ひとから好かれるよう、優しくしてもらえるよう、必死だったんですけど、それにしたってやっぱり自分には価値が薄いんだなということを、節目節目で思い知らされました。クラスや学年が変われば、それまで仲良くしていたつもりの友だちなんかとは疎遠になってしまうし、いちど恋仲になったり、関係を持ったりした男のひとたちも、時間が経てばみんな段々わたしに冷たくなり、やがてわたしよりも価値のあるほかのひとのところに行ってしまうのです。 
 そういうことがある度にわたしは、ああ自分が好かれないのは自分にまったく価値がないからだし、頑張りとか、差し出すものが足りなかったからなんだなと思ってしまいます。ああ、わたしは、これより多く、いったい何をひとに差し出すことが出来るというのでしょう。わたしはこれ以上何も持っていない!
 ねえやっぱり今そこを猫が通りませんでしたか。
 
 こんばんは。
 こんばんは。
 こんばんは。
 今日も寒いですね。
 あなたと会うのはこれで二回目です。初対面の時のことをあなたは覚えていますか?
 わたしは覚えています。
 あの晩わたしは、あなたに会った後、首に巻いていた真っ赤なマフラーで顔を半分覆って、線路沿いの黒い道を泣きながら歩いて帰りました。泣いて帰ったんです。
 わたしはあなたとはじめて会って泣いて帰ったんです何故だか分かりますか。
 ねえ聞いてください。そこに自販機があります。
 自販機なんかほうっておいてわたしの話を聞いてくださいさっきその裏に猫が居たんです。わたしの話を聞いて。泣いて帰ったんですよわたしは。あなたと出会った日に。
 何故だか分かりますか!
 ねえわたしは、あなたにはじめて会った日、あなたに何でもあげると言ったのに、あなたは何も欲しがらなかったから!
 あなたはわたしの何も欲しがらなかったから!
 ねえ聞いてくださいよ缶コーヒーなんか買っていないで、ねえお願いですから、話を聞いてください。

 何ですか。
 その缶コーヒーわたしにくれるんですか。
 どうしてわたしにこれをくれるんですか。

 わたしはまだ、あなたになにもあげられてないのに。








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