目覚まし時計が鳴った。わたしは目を覚ました。ベッドから起きて上がってカーテンを開けた。天気はとても良かった。猫が、わたしの足もとに来て、にゃあ、と短く鳴いた。わたしは眠い目をこすりながらキャットフードを用意し、水皿の水も新しいのに替えた。わたし自身はシリアルを牛乳に浸して食べ、それから顔を洗い、髪の毛を整え、化粧をして洋服も着替えた。それから仕事用の鞄を持ち、猫の頭を撫でながら「行ってきます」と言って、普段と変わらない時間に家の玄関を出た。今日。私は三十歳になった。
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小学生の頃。わたしは給食を食べるのが遅い子どもだった。特に好き嫌いがあったわけではない。けれど同級生とくらべて、食べ終えるまでにとにかく時間がかかった。「ひとくちごとに三十回噛みなさい」という担任の教えを、律儀に守っていたせいかもしれない。先に食べ終えた子たちが校庭に出て駆け回る様子を、窓から眺めて羨ましいと思いながら、給食をわたしは、毎日のこさず食べた。わたしが食べ終えた時、昼休みはたいてい、あと数分しか残っていなかった。だからわたしは校庭で遊ぶことがほとんどできなかった。
高校生の頃。わたしは恋をしたいと思っていた。すてきな恋人を作り、放課後に制服のままデートをしたいと思っていた。夏休みや冬休みに待ち合わせをして小旅行に行きたいと思っていた。そういう恋愛に憧れを持っていたし、できると信じていた。けれど実際には、できなかった。できそうな気配さえないまま、入学から三年経ち、わたしの高校時代はあっという間に終わった。わたしが憧れていたような恋愛を、実際にしていた同級生は決して少なくなかった。なのに、わたしにはできなかった。
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いまから十ヶ月ほど前、そんなわたしに、はじめて恋人ができた。相手の男はわたしと同じ二十九歳だった。高校時代から望んでいたことが、ようやく叶ったので、わたしは嬉しかった。デートをしたし、プレゼントも贈り合い、バージンだって捨てた。楽しい時間だった。にもかかわらず、わたしたちは付き合い始めてからたった二ヶ月ほどで、交際を解消した。
男との交際を解消したのは夜で、雨が降っていた。わたしは男の家をあとにし、駅の方を目指した。傘を持っていなかったので、歩きながら、ずいぶん雨に濡れた。こんなにびしょ濡れで電車に乗り込んだら、きっと周囲から白い目でみられるだろうと考え、みじめな気持ちになった。
わたしたちが交際を解消した理由は、ほんとうに、ほんとうに些細な、つまらない喧嘩だった。でも、わたしにとって、あれははじめての交際だったから、そんなつまらない喧嘩を収めるやり方さえ、まったく分からなかった。
小学生の頃にきちんと校庭で遊び、高校生の頃から恋愛経験を積み重ねてきた同級生たちは、こんな些細な失敗、十代のうちに済ませていたのだろう。彼女たちの多くは既に結婚しているし、子どもを生んで育てている者も少なくない。あるいは義務感を超え、心から打ち込める仕事があるという者もいる。わたしにはいずれもない。
思えばわたしの人生は、ずっとこういう感じだ。できなかったことばかりが幾つも積み重なって、帳尻を合わせも間に合わずに、自信のない、卑屈な大人になった。
もしも小学生の頃に、ふつうに食事を取り、校庭で遊べていたら、こんなふうに雨に濡れながら歩くことはなかったのにと、わたしは考えた。もしも高校時代に恋をできていたら、こんなに惨めな気持ちで、この道を通ることはなかったのにとも思った。
その時。路肩のゴミ箱の中から、弱々しい鳴き声が聞こえた。
足を止めてゴミ箱の中を覗き込むと、そこには仔猫がいた。
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わたしは今日、三十歳になった。会社ではいちども「誕生日おめでとう」と言われはしなかった。いつもと同じように、淡々と仕事をして、残業を一時間ほどしてから、会社をあとにした。帰り道にスーパーに寄って、安くなっていたお惣菜と、普段より少し高いキャットフードを買った。帰宅すると、玄関先にいた猫がわたしの顔を見上げ、にゃあ、と短く鳴いた。最初に出会ったあの雨の夜と比べ、この子の身体はずいぶん大きくなった。