その辺の凡人が天才になる方法について思うところ

特別な才能を持っていない人間は持っている人間に結局勝てないのか?

というようなことを書きます、と昨日の日記で言ったので、

そのことについて。

うん。

残念ながら何の才能も持っていないひとは才能あるひとに勝つことは出来ない。

才能のことを考える時に思い浮かぶ顔がいくつかあるのだけど、

そのうちのひとりが元サッカー選手でのジーコさんというひと。

平成生まれのひとたちにとっては、

ジーコさんといえば「サッカー日本代表の監督を務めていたひと」という印象が強いと思うけど、

現役時代のジーコさんというのは本当にすごいプレイヤーで、

特に得点を取るチカラにすごく優れていた。

サッカーというのは11人でやって、

ひとつの試合で2点か3点ぐらいしか入らないスポーツなんだけれど、

ジーコさんは現役時代に通算1180試合に出場して826点取った。

出場していた試合の約7割で点を取るという凄さは、

普段サッカーを見ない僕でもさすがに理解できる。

ジーコさんという選手は、点を取ることに関して、まさに天才だった。

けれどジーコさんが監督を務めていた時の日本代表チームは、

点を取ることがすごく下手くそなチームになってしまった。

気の毒なほど点が取れないのでワールドカップでも一勝も出来ず敗退してしまった。

得点の天才が指導者を務めていたチームだったというのに、

選手たちはどうして点を取ることが出来なかったんだろう。

前回に引き続き、

「才能」という言葉について辞書を引いてみると、

“物事を巧みになしうる生まれつきの能力”と書いてあるんだけど、

うん、

得点の天才だったジーコさんは、

サッカーで点を取るために必要な何らかの能力を生まれた時から既に持っていたはずで、

だけど「生まれた時から持っていた」ということは、

「持っていない状態」から「持っている状態」になる変化を経験していない、

ということであるから、ジーコさんは、

「得点する能力を生まれつき持っていたせいで、”持っていない状態”から”持っている状態”にする方法がイマイチ分かってなかった」

のではないか。

つまりジーコさんは、

「自分が点を取る才能」は持っていたんだけど、その代わりに、

「点の取り方を教える才能」には欠けていたんだと思う。

はい。

なので人間の才能っていうのは、

「何かが伸びればその分何かが欠ける」

という類のもんなんじゃないかと僕は思うわけです。

なので人間ひとりひとりが持っている「才能の総量」には、

実はそんなに大きな違いはなくて、

じゃあ世の中で「天才」と呼ばれているヒトたちっていうのは、

単に自分の「才能の形」にぴったりハマることをやっているだけだと思うの。

例えばアインシュタインは天才科学者だけど、
もしも彼が科学ではなく野球選手を志したとしたら、
こんな後世に名を残すような選手に果たしてなれただろうか。否。

もしも長嶋茂雄が、
野球選手ではなく政治家を志していたら、
なに言ってるのか誰にも理解できない変な議員が誕生したと思う。

もしも太宰治が、
作家ではなく普通の会社に就職していたら、
きっと三日でメンタルやられてニートになってたはず。

世の中的に「天才」なんてもてはやされてるヒトたちっていうのは、

別に能力の総量が多かったわけではなくて、

たぶんただ単に自分の「才能の形」に合致したことをやっていただけだ。

なので冒頭の

特別な才能を持っていない人間は持っている人間に結局勝てないのか?

という問いかけについては、

やっぱり残念ながら、何の才能も持っていないひとは才能あるひとに勝つことは出来ない。

と答えざえるを得ないわけなんだけど、

ただしそもそも「何の才能も持っていないひと」というのが存在しないので、

自分の「才能」がどういう「才能の形」をしているのかを理解し、

それに合致したことをやれれば、

誰でも「天才」になれるはずだと僕は思っている。

羽根も持たない可哀想ないきものたちの話
コンビニに並んでいる雑誌の表紙に彼女の姿を見つけた。わたしばかりが上手に変われなかった。
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