懐中電灯の明かりで足元を照らしながら波の音がする方へと歩いた。歩きながら見つけた幾つかの看板には「家族の顔を思い出そう」「命を大切に」「ひとはやり直せる」などと書かれていた。波の音に近づくほど海からの風が強さを増していった。十分ほど歩き続けると目的地である崖にたどり着いた。ポケットから携帯電話を取り出して画面を確認すると不在着信が幾つも入っていた。おそらくすべて借金取りからのものだ。携帯電話を崖から放り投げると、いよいよ引き返せないという気持ちがふつふつとこみあげてきた。
思い出されるのはダイキくんのことだ。ダイキくんは僕らが小学六年生だった年の春に転校生としてクラスにやって来た帰国子女だった。彼は格好が良かった。海外暮らしが長かった分、僕らの知らないことをたくさん知っていたし、頭も良くてとても垢抜けていた。クラスメートの多くは、そんなダイキくんと友だちになりたがった。
にもかかわらず彼は、教室の隅でひっそりと過ごしていた僕のことを見つけて、積極的に声をかけてくれた。「リョウスケ」と僕をし下の名前で呼び、体育の時間にはペアを組んでくれたし、家にも呼んでくれた。どうして僕なんかと仲良くしてくれるの? あるとき僕が疑心暗鬼になってそう訊いたら、彼はふっと笑いながら「おれもあっちじゃ落ちこぼれだったんだよ」と答えた。
当時の僕はいじめられっ子だった。身体が小さく喧嘩も弱くスポーツだって苦手だったからだ。小学生の男子というのは喧嘩の強さや足の速さで教室の中での順位が決まっていく。強い身体を持っているやつは高い順位を得て威張ることができたし、その対局にあった僕のような子どもは、上位の奴らの機嫌次第で嫌がらせを受けても、それに耐えるしかなかった。それが教室の中での当たり前の摂理だと思っていた。
けれどある時ダイキくんはみんなの前で言った。「喧嘩? スポーツ? そんなのでひとの順番が決まるなんてすごく変だと思う。どうせだったらもっとみんなが喜ぶような順番の付け方をしようよ。たとえば、ひとに優しくしたひとほど偉いなんていうのはどうかな?」ああ、休み時間に黒板の前に立って、身振り手振りを交えながら一席打った彼の堂々とした姿は、あれから二十年以上経った今でも、声のトーンや表情のひとつひとつまではっきりと思い出すことができる。
ダイキくんのその提案はクラスで受け容れられた。垢抜けて頭の良いダイキくんが言うなら、それがいちばんスタイリッシュで良いやり方だとみんなが思ったのだ。それから毎日ダイキくんは、みんなにシールを一シートずつ配った。「優しくしてもらった時、このシールを一枚はがして、相手のノートに貼ってあげるんだ。自分で自分のノートにシールを貼るのはナシ。ひとからもらったシールが多いひとが、いちばん偉いひとだよ」と、担任の先生がするようにみんなに説明した。
それからの日々は楽しかった。僕は他のクラスメートより早く走ったりとか、喧嘩をして勝つなんてことはできなかったけれど、それに比べたらひとに優しくすることはすごく簡単だった。具合が悪そうな子に声を掛けてあげたり、筆記用具を忘れてきた子に鉛筆を貸したり、掃除当番を頑張ったりすることで多くのシールを集めることができた。シールの数が多くなってくると、それまで僕に冷たかったクラスメートも僕に優しくなった。
一方でそんな変化を面白く思わなかったのがいじめっ子たちだ。優しさやシールの多さで偉さを決めるよりも、足の速さや喧嘩の強さで順位を決めていた頃の方が、高い順位に立てていた子どもたちだ。彼らはダイキくんに色々な嫌がらせをするようになった。発端者であるダイキくんさえやっつければ、教室の中も彼が来る前の有り様に戻るはずだろうと、彼らは考えたのだ。そして彼らの目論見は上手くいってしまった。さすがのダイキくんも腕っぷしでは彼らに敵わなかったからだ。クラス中のシールも全部彼らに取り上げられてしまった。僕は以前と同じいじめられっ子に戻り、ダイキくんはそれよりもっと酷い仕打ちに遭った。
酷い目に遭うダイキくんを見るのは悲しかった。だからある時ダイキくんに僕は謝罪をした。僕のせいだ。優しさで順番をつけようなんてダイキくんがいってくれたのだって、もとはといえば僕へのいじめを止めさせようとやってくれたことだ。僕さえしっかりしてれば、ダイキくんがこんな目に遭うこともきっとなかったのに。けれどダイキくんは、それでも少しも嫌な顔なんかしないで、いつものように爽やかに言うのだ。「リョウスケののせいじゃないよ。だってお前は良いやつじゃあないか。シールだって誰よりもたくさん集めただろ?」
卒業後。ダイキくんは僕らと同じ中学校に進学しなかった。彼がどうしたのかは誰も知らなかった。頭が良いから受験をして市立の学校に行ったんだろうだとか、海外に戻ってそちらの学校に入学したのだろうだとか、幾つか噂が立った。
中学時代、高校時代、大学生と過ごし、社会人になっても、ダイキくんのことは僕の心に残り続けていた。いつかまた会えた時に、彼のいうところの「良いやつ」のままで居なければいけないと思った。困っているひとがいれば進んで手を貸したし、ひとの嫌がることを率先してやるように心掛けて過ごした。
……けれどそんなものは、やっぱり本当の親切心ではなかったように思う。彼に好かれた自分でいなければいけない。ひとに手を貸せない自分になるのが怖い。誰かのためと思っているみたいな振る舞いをしながら、実態はすごく自己中心的だった。だからきっと罰が当たったのだ。ある時「借金の保証人になって欲しい」と知人から頼まれ、僕が引き受けると、その知人は間もなく姿を消し、一切の連絡がつかなくなってしまった。
ダイキくんの近況を僕が知ったのは多額の借金で生活が立ちいかなくなった直後のことだった。彼は取材を受け、僕の家のテレビの液晶画面に突然姿を見せた。なんでも今は学校の経営をやっているのだという。ただの学校ではなく、いじめや家庭の事情などで、普通の学校に通うことが難しい子どもが集まる学校だ。インタビューの中で彼は「おれが小学生の時にもいじめがありました。その時の経験から、こういう学校が必要だろうと思い立ったんです」と、変声期を経て低くなった声で語っていた。彼の姿の奥に映る子どもたちは、確かにみんな活き活きと遊んでいるように見えた。テレビ局のカメラを珍しがっているのか、ピースサインを送る子どもも居た。
彼の活躍を聞き、僕は嬉しく思った。僕なんかと共有したあの日々の経験が、彼のような立派な人物に影響を与えられたのだと、そのお陰で救われる子どもたちがいるのだとうことが、すごく誇らしいかった。自分が彼に出会い、関わりを持ったことに、きちんと意味があったのだと感じることができた。
そして同時に、急にほっとして、力が抜けてしまった。僕はこれで、自分の役割を正しく終わらせられたのだと、そんな気分になった。借金取りからの電話は止むことがなかった。終わりにするタイミングとしてはちょうど良いように思った。
自殺の名所、なんて呼ばれる崖の上で靴を脱いで、僕は素足になった。ここに来れば、もう少しぐらい迷いや怖さを感じるのかなとも想像していたけど、そんなことはなかった。硬い岩肌のひんやりとした感触が足の裏に伝わり、僕の気持ちを妙に昂ぶらせた。いよいよ一歩を踏み出そうとしたその時。けれど強い力が身体を反対側に引っ張り、僕はバランスを崩した。崖とは反対方向に背中から倒れて、口の中を噛み、舌が血の味を感じた。
「リョウスケ、ひさしぶり」
直後に聞こえたのは、数日前、家のテレビのスピーカーから流れたものと同じ声だった。
「いっしょに来てよ。おれの仕事にはさ、良いやつが要るんだ」
あとがき
このお話のモデルになってくださった方から、コメントを寄せていただきました!
僕の経験を元に、素敵な物語に仕上げていただきました。
人はその時その時を一生懸命生きていて、遠い過去に出会った仲間とはいつの間にか距離も遠くなり、思い出すことも少なくなってしまいます。ただ、もしかするとそのうちの誰かの心とは今も強い繋がりがあるのかもしれない。
そうであったらいいし、そんな存在になれたらと感じました。
何かにチャレンジするとき、大変なとき、この物語を開いて、僕のヒーローであり、分身でもあるダイキくんに力を分けてもらいたいと思います。大切にしたい物語です。
ありがとうございました。