あなたの未来に祝福を


 ——二〇〇八年八月某日。恋人のナツオはベッドのうえでしくしく泣いている。やせて骨ばった青白い背中を情けなく丸めて「おれはいったいどうなっちゃうんだろう」とぶつぶつ言っている。聞くところによると一緒に音楽ユニットを組んでいたミウラさんがプロになる夢を諦めて両親のパン屋を継ぐことに決め地元に帰ってしまったのだという。ナツオは今年三十五歳になり確かミウラさんも同じ年齢だった。「おれはミウラみたいに継げる家業もなければサヤと違って学歴だってない。いまのバイトだっていつクビになるかって毎日びくびくしている。これから自分がどうなってしまうのか不安でしかたないんだ」サヤというのはわたしの名前である。わたしは現在二十二歳の大学四年生で来年の四月からはかねてより志望していた通信会社に勤めることが決まっている。就職活動が早々に済んで暇だから最近はこうして日々ナツオの家に来てはだらだら過ごしている。わかるよ将来が不安なんだよね。とわたしはナツオに言う。ナツオの気持ちがわたしにはよぉくわかるよ。すると「わかるもんか!」とナツオは声を荒げた。「簡単にわかるなんて言うなよ、サヤだって就職したらもっとちゃんとした男を好きになるに決まっ」わたしはナツオの口に指を突っ込んで彼の言葉を遮る。彼の頭を胸に抱き寄せながら耳元で、ねぇあのさぁ、とささやく。口の中に突っ込んで指で彼の舌をつまみながらささやく。ねぇあのさあそういうのいいから早くセックスしようよ。つけっぱなしのテレビの画面からは二ヶ月後に実施されるアメリカの大統領選挙に関する報道が垂れ流されてくる。

 ――二〇二三年八月某日。所属する部署での飲み会がお開きになり駅に向かおうとすると「このあともう一軒ご一緒できませんか」と後輩のマツダくんから声をかけられた。それはふたりきりでってこと? とわたしが尋ねると彼は首を縦に振って答える。あなたまだわたしのこと好きなの? とわたしが尋ねると彼は「そうです」と短く返事をする。わたしは現在三十七歳でマツダくんはそれより二歳若い。わたしもマツダくんもそれぞれ独身である。いまのわたしに交際相手はいない。マツダくんはわたしに異性としての好意を抱いている。職場でのマツダくんは派手さこそないがどんな仕事にも丁寧に取り組む得難い人材である。人柄も誠実で裏表がなく好人物であることに疑いはないように思える。だがそれでもわたしは異性としての魅力を彼に感じない。「飼ってる猫にご飯をあげなきゃいけないから今日はもう帰るよ」とわたしは嘘の理由を告げてその場をあとにする。わたしが本当は猫など飼っていないことを彼は知っているけどそれ以上深追いしてくることはなかった。やはり信頼できる人物だなと思う。

<!‐‐このところわたしは奇妙な夢を見る。
 夜に眠るとちょうど十五年前の一日を夢に見るのである。
 たえとえば二〇二三年八月一日の夜には二〇〇八年八月一日を夢見る。
 二〇二三年八月二日には二〇〇八年八月二日を夢見る。
 そして一連の夢は一五年前の自分が朝起きるところから始まり夜になって眠るところで終わる。
 体感としては二〇二三年と二〇〇八年を一日おきに交互に過ごしているという形だ。
 あるいは二〇〇八年自分が二〇二三年の自分を夢見ているという可能性もある。‐‐>

 ――二〇〇八年八月某日。ユニットなんかまた組んだらいいじゃんとわたしは言いながら恋人であるナツオの身体に馬乗りになって頬を軽く叩いた。ナツオは音楽で食べていくんでしょう? とわたしは言いながらナツオに抱きついてその首筋に軽く歯を立てた。「プロになるなんて無理だって本当はわかってるんだ」とナツオはつぶやいた。「音楽でプロを目指していることにすれば将来への不安から目を背けていられた。でもそうするのもそろそろ限界なんだ。だっておれはもう三十五歳なんだ」うんうんそうだよね。と相づちを打ってからわたしはナツオにキスして舌の自由をうばう。つけっぱなしのテレビの画面からは二ヶ月後に実施されるアメリカの大統領選挙に関する報道が垂れ流されている。二〇二三年の記憶を持つわたしはこの選挙でどちらが勝つのかを知っている。数年後に大震災が起こることも誰もがスマートフォンを持つようになることも平成の次の年号も知っているし新種の感染症が世界全体に大きな被害をもたらすことだって知ってる。知っていてなお二〇〇八年八月のわたしはこうして毎日ナツオの家でだらだらすごしてセックスばっかりしている。

 ――二〇二三年八月某日。部署での飲み会がお開きになり「このあともう一軒ご一緒できませんか」と誘ってきたマツダくんも振り切って電車に乗り込んだわたしはスマートフォンを手にとってSNSのアプリを起動する。すると同期入社であり数年前に退社した女性が先日三人目の子どもを出産したという投稿がわたしの目にとまる。わたしはテスト用紙を渡された中学生がまず最初に指名を記入するのと同じような思考のともなわない指の動きで以てその投稿に“おめでとう!”とコメントを残した。電車は進んでいく。わたしが足を動かさなくてもだだんだだんと規則正しい音をたて進む。最寄り駅で電車を降りてから自転車に乗って帰宅してテレビをつけると音楽番組をやっておりちょうどナツオが歌い出すところだった。現在五十歳になったはずのナツオはわたしの記憶にあるよりもさらに痩せている。生きていくことの苦しさと難しさと素晴らしさを伸びやかな声で歌った。

<!‐‐ナツオとわたしの交際はわたしが社会人になった年に終わった。
 大きな理由はわたしが地方の配属になったことだ。
 はじめの数ヶ月は遠距離恋愛という形を取っていたが長くは続かなかった。
 慣れない土地で仕事を覚えながらの生活は当時思っていたよりもずっと負担が大きく当時のわたしはナツオの弱音に耳を傾けたり聞き流したりする余裕がすっかりなくなっていた。
 そしてわたしと別れたあとナツオはアルバイトで日銭を稼ぐ傍ら当時まだ黎明期であった動画配信サービスを利用して弾き語りの配信を始めたのだという。
 この活動によりナツオは徐々にファンを増やし数年前にテレビドラマの主題歌を歌ったことを機にブレイクを果たした。
 わたしはいまの彼の個人的な連絡先を知らない。‐‐>

 ――二〇〇八年八月某日。ベッドのうえでナツオはわたしを抱く。わたしは彼の痩せた身体や怯えたような顔を下から見上げて思わず笑ってしまう。ねえナツオもっとわたしに言いたいことがあるでしょ。とわたしは彼に言う。「未来のことが怖い」と彼は口にする。「サヤにはどんな未来でもある。おれにはない。怖い」わたしがあなたに飽きちゃうと思うの?「思う」わたしに捨てられるのが怖いの?「怖い」それじゃあさぁ。わたしが。他の人じゃ駄目になるぐらい気持ちよくしてごらんよ。ほら。がんばって。――そこから先はお互いに言葉を発することなくわたしの耳に届くものは早くなっていく彼の呼吸音と自分の叫ぶ声ばっかりだった。――ああ。わたしはあなたに決して教えるものか。あなたの夢が叶うなんてことを。あなたの未来が明るいなんてことを。決してあなたに教えてやるもんか。

あとがき

それでも、もう一度眠れば2023年の8月某日になり、2023年の「わたし」はその日を生きたのです。次の日も、また次の日も、2025年の今になってもそうなのだと聞きます。それは強くて格好いいことだ、と、私は思います。

2025/05/11/辺川銀

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