この人生に意味などあるのだろうか


 眠る前には日記を付けることにしている。分厚い日記帳を机の上に広げる。水性のボールペンのキャップを取り外す。部屋の中には古いテレビがある。とても古いテレビなので極まれにしか電波を受信しない。天井まで届く背の高い本棚には数百冊の本が並んでいる。本はどれも外国語で書かれており僕には読むことが出来ない。窓はひとつだけある。開くことは出来ないし曇り硝子なので外の様子を確かめることは出来ない。ドアはひとつもない。外に出ることは出来ない。食べるものもない。水道もない。浴室もトイレもない。だけれど僕はこの部屋で生活している。コンクリートの壁。フローリングの床。もうずいぶん年月をこの部屋で生活している。

 幼い頃。僕が最初に与えられた玩具は虫眼鏡だった。僕はどこに行く時も虫眼鏡を持ち歩いた。気になるものを見つけるたびに虫眼鏡を使って細部を観察した。例えば蟻の巣。例えば木の幹。例えば砂場の砂。それから部屋の綿埃。一体何が面白かったのか。今思い返すとさっぱり分からない。最後に虫眼鏡を覗いたのはいつ頃だっただろうか。小学校に入学した時には虫眼鏡を持って出かけるようなことはなかった。あの虫眼鏡は今もあるのだろうか。壊した記憶はない。今でも実家の押入れの奥で眠っているかもしれない。あるいは他の何かと一緒に捨ててしまったのかも。

 眠る前には日記を付けることにしている。今日は何を書こうか。日記帳の白いページを眺めながら僕は首を傾げる。不意にジリジリと音が聞こえ始める。音を立てたのはテレビのスピーカーだ。テレビの画面が点く。ニュース番組が流れる。カルロという宇宙飛行士のインタビューが放送されている。このカルロという人物は明日の正午に打ち上げられるロケットで宇宙に出発する。カルロのことを僕は知っている。小学校に通っていた頃のクラスメートだった。カルロは背が高くて痩せっぽちな男の子だった。クラスで二番目に足が速かった。カルロはみんなから好かれていた。カルロ自身がみんなに対して優しかったからだ。僕は彼のことが嫌いではなかった。彼のような人間になりたいと密かに憧れた。大人になって宇宙飛行士になったカルロは僕のことなんて覚えていないだろう。

 眠る前には日記を付けることにしている。この部屋にある唯一の窓は曇り硝子だし空けることも出来ないから外の様子を確かめることは出来ない。けれど日差しは入って来るので今の季節とおおまかな時間ぐらいは分かる。昼間の時間は夜に記す日記の内容を考えながら過ごすことにしている。日記を付ける上で僕自身が定めたふたつの決まりがある。第一に必ず事実を書くこと。第二に毎日異なる内容を書くこと。ふたつの決まりを満たすためにはこの限られた空間の中で昨日とは違った箇所を見つけなければいけない。フローリングの木目。壁や床の質感。天井のシミ。窓の硝子の温度。僕は右手の親指と人差し指を合わせて円の形を作る。指で作った小さな円を虫眼鏡に見立てて部屋を観察する。この指の形は一般的にOKサインと呼ばれる。虫眼鏡の指と僕は呼んでいる。本を読む時やものを探す時。神経を尖らせてものを見る時。虫眼鏡の指を作る癖がある。幼い頃からある。

 カルロのことを僕は考えた。カルロは僕が小学校に通っていた頃のクラスメートだった。彼との会話をひとつ覚えている。場所は図書室だった。窓際の席に僕は座っていた。良く晴れた日で窓は開いていた。僕は本を読んだ。虫眼鏡の指で本を読んでいた。多重人格の男が殺人を繰り返すミステリー小説だった。カルロは僕に声を掛けてきた。
「変わった本の読み方をするね」
 とカルロは僕に言った。虫眼鏡の指について僕は説明した。こうした方が集中できるのだと僕はカルロに言った。だけどあの時カルロがどういう反応を示したのかまでは思い出すことが出来ない。

 眠る前には日記を付けることにしている。コンクリートの壁。フローリングの床。この部屋には扉がひとつもない。僕はこの部屋の外に出ることが出来ない。窓ガラスを割って脱出することを何度か考えた。しかし窓硝子はとても硬いのでどんなに強く叩いても傷ひとつ付くことはなかった。外には出られないが日記は付けなければならない。この限られた空間の中で昨日とは違った箇所を見つけなければいけない。天井から落ちてくる埃の粒を数える。朝起きてから日が暮れるまで数える。もちろんすべてを数えることは出来ない。可能な限り数える。ふと疑問に思う。こんな生き方に意味はあるのだろうか。この人生に意味などあるのだろうか。
 不意にじりじりと音が聞こえ始める。音を立てたのはテレビのスピーカーだ。テレビの画面が点く。ニュース番組が流れる。宇宙飛行士になったカルロの姿が大きく映し出される。カルロは宇宙服を着ている。場所はおそらくロケットの機内だ。カルロは今まさに宇宙へ旅立とうとしているのだ。バイザー越しに見えるカルロの表情は自信に溢れている。ニュース番組のアナウンサーがカルロに対して何か質問する。カルロは笑っている。カルロは右手の親指と人差し指を合わせて円の形を作る。むかし僕が教えた、虫眼鏡の指を作って、テレビカメラに向ける。
 

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