その若い桜の木が病院の庭に植樹されたのは秋の晴れた日だった。ちょうど同じ日に病院の分娩室では翡翠色の瞳を持った少女がこの世に生まれ落ちた。少女は生まれてすぐに親から離されて病室に運ばれていった。桜の木が植えられた場所は少女が運ばれた病室の窓に面していた。なので桜の木には病室の中の様子がはっきりと分かった。少女はまだ生まれて数時間も経っていなかったが重たい瞼を微かに開いていた。桜の木は少女の持つ翡翠色の瞳をとても綺麗だと思った。桜の木はその時から彼女のために花を咲かすと決めた。
それから数年が経ち少女はすくすくと成長した。翡翠色の瞳だけではなく金色の髪と白い肌、すっと通った目鼻立ちを持ち、誰もが息を呑むような美しい女の子に育った。しかしどういうわけか少女は一年のうちのほとんどの期間を、生まれた直後に運び込まれたのと同じ病室で過ごした。桜の木は、少女が常に病室に居ることを疑問に思わなかった。少女がいつも自分の傍に居てくれることを大変うれしく感じた。毎年春になると少女のことを想って満開の花を咲かせた。桜の花は少女の容姿に負けず劣らず麗しかったので、病院を訪れるひとの多くが桜の木を愛した。
さらに数年が過ぎた。四月も半ばに差し掛かり桜の花は殆ど地面に散った。桜の木は清々しい気分だった。今年も少女の前で満開の花を咲かせることが出来たからだ。少女は依然として多くの時間を病室で過ごしていた。しかしある時ふたりの看護婦が桜の木の下にやって来て五分間ほど噂話をした。噂話の内容は翡翠色の瞳を持った少女に関するものだった。噂によると少女の両目は生まれた時から失明しているそうだった。桜の木はその時になってようやく、これまで自分が少女のために咲かせてきた花が、少女の目には映っていなかったのだということに気付いた。
その年の夏、桜の木は強い日差しや激しい雨を忍びながら浴びながら激しく悲しんだ。自分がこれまであの美しい少女のためを思ってしたことはすべて無駄だったのだと嘆いた。秋になると、桜の木は北からの風に枯葉を揺らしながらじっとひとりで悩んだ。少女に見えていないのなら、花を咲かす意味などひとつもないような気がした。冬がやって来ると、桜の木は雪を被りながら静かに心を決めた。次の春が来ても、二度と花など咲かせるものかと思った。
しかし次の春になると桜の木は例年と同じように花を咲かせていた。病室に居る少女の、翡翠色をした瞳に映ることはなくとも、満開の花を咲かせた。たとえ無力と分かっていても、桜の木は、少女のために何かをしたかったからだ。たとえ無駄だと分かっていても、桜の木には、少女のために出来ることが他になかったからだ。桜の花は、子どもから老人まで、誰もが夢中になるほど、眩しく麗しかった。桜の木の周りに集まるひとびとは誰もが笑っていた。次の年も、また次の年も、桜の木は少女のことを、ただただ思いながら、儚い花を咲かせた。
十数年目の春がやって来た。桜の木は今年も枝一杯の花を咲かせて皆を喜ばせた。満開を少し過ぎて花びらが散り始めたある日の夜中だった。ふと気づくと、ずっと病室に居たはずの少女が桜の木の下にひとりで立っていた。小さな掌で幹を触っていた。翡翠色をした見えないはずの両目で、頭上に広がる桜の花をしっかり眺めていた。少女は頬に涙を一筋流し、それから小さく言った。
「あなたの花をこの目で見たくて手術を受けました」