
ライブハウスを初めて訪ねた日、私はまず、不安な気持ちになった。椅子のないフロアは満員電車さながらに混み合い、隣の人との距離は体温とか息遣いが分かるぐらいに近い。施設全体にしみついた煙草の匂い。薄い酸素。空気をびりびりと揺るがす電気じかけの音響。クラシックのコンサートとは何もかも違っていた。だが何よりも私の不安を煽ったのは、イベントのトップバッターとして登場した、ミツキ擁するバンドの演奏が下手くそだったことだ。
「ライブやるから、来てよ」と同僚のミツキに誘われたのは一ヶ月ほど前。昼休みに職場近くの定食屋で看板メニューのチキン南蛮を食べながら言われた。「あたし実はバンドやってるんだけど今度ライブやるから、来てよ、ハルちゃん」と。私は正直気乗りしなかったが、ミツキとは職場で毎日顔を合わせる。断って角が立つほうが望ましくなかったので、少し迷ってから、行くよ、と返答した。「ハルちゃんならそう言ってくれると思った」と、ミツキは舌のピアスを見せて笑った。
そんな経緯で訪ねたライブハウスだったが、ミツキたちの演奏はてんで下手くそだった。ボーカルのミツキは常にちょっとずつ音程を外してるし、高音なんて高音は首を絞められた鳥みたいに苦しそうだった。ギターもベースもドラムもミスだと分かるミスを幾つもやっていた。なぜこんな出来で人前に出ようと考えたんだろうか。もしもあのステージに立ち、あの酷い演奏をしているのが自分だったとしたら、きっと怖くて耐えられないだろうと、私は不安になった。
私も以前音楽をやっていた。中学生の頃から吹奏楽をしていた。身の丈ほどある木管を身体全体で抱えて、曲に背骨を通すような、伸びやかな低音を吹くのが好きだった。それに自分でいうのもなんだがけっこう上手かった。もちろん私ひとりの功績ではないけど中学の三年間で全国大会に二回出場した。その後、全国大会常連の強豪高校から誘いを受け、特待生として入学したときには、この楽器を吹き続ける先に自分の将来が拓けていくのだと少しも疑わなかった。
ミツキたちの演奏は依然として下手くそなまま続いた。曲は最初のサビが終わって間奏に入った。まだ一曲も演り終えていないにもかかわらずドラムの音には疲れが滲んでいた。バンドマンっていうのは体力づくりはやらないんだろうか。前に立つ女の子のポニーテールが揺れて目障りだと思った。人と人との距離の近さがやはり気にかかる。どうしてこんなにお粗末な演奏をこんなにたくさんの人が聴きに来ているのか。このあとに控えている出演者がよほど上手いのだろうかと私は考える。
高校時代は苦しかった。吹奏楽部の顧問の先生は教え子たちを幾度となく全国大会の舞台に導いた名将として知られる女性であり、実際に指導力も極めて高かったが、一方で暴君であり、コンクールのメンバーに選ばれるためには高い演奏技術に加えて彼女の機嫌を取れることが必須条件だった。入学から半年も経つと一年生は「お気に入り」と「それ以外」のいずれかに暗黙的に分類され、私は後者だった。「お気に入り」でない生徒に与えられるチャンスは明らかに少なく、私は吹奏楽部を辞めたいとさえ何度も思ったけど、特待生である以上それも難しかった。好かれていないことを理解しながらも、毎日、先生の顔色を伺って過ごすしかなかった。
ミツキたちの演奏は続く。やはり下手くそだ。ギターは先走りすぎているし、ベースの音はあんまり聞こえない。ミツキの歌は声ばかりが大きく、音楽というよりは女が怒鳴る劇のワンシーンを見ているかのようだ。もしも先生がこの場にいたらと私は想像する。もし先生がこの場にいたらこの演奏を褒めることは決してないだろう。何も言わずに軽蔑の眼差しを送って、それから数日間は存在すらしていないかのように処遇するだろう。前に立つ女の子のポニーテールが揺れる。隣に立つ男の子と一瞬肩が触れる。ここにいないはずの先生の眼差しが幾度も脳裏をよぎる。酸素が薄く呼吸をするのが苦しく私は今にも膝をつきそうだ。
その次の瞬間。
「みんな叫べ!」
と、いかずちのような声でミツキは絶叫した。
ずっと先生の「お気に入り」ではなかった私だがひとつ上の先輩たちが引退し自分たちの代になると直後のコンクールでは入学以来はじめてのソロパートを任された。おそらく先生の気まぐれだったのだろうが私にとってはようやく与えられた大きなチャンスだった。完璧にこなさなくてはいけない。期待に答えなきゃいけない。そうでなければ存在することを許されないと思った。にもかかわらずコンクール当日の演奏で私はミスをした。出だしの三小節で指がもたついた。おねがいだから見捨てないでくださいと縋るような思いで指揮棒を持つ先生に視線を送ったが目が合うことはなかった。あの日から一年後の引退まで何を考えて吹奏楽部に所属し続けていたのかはあまりはっきりと思い出すことができない。引退と同時に楽器に触れること自体がさっぱりなくなった。
ミツキたちの演奏は続く。ミツキの「叫べ!」の号令を受けフロアを埋め尽くす人人人たちは「オオーッ!」「オオーッ!」と地響きのような怒号のような声援を送り始める。声援は荒々しくリズムを刻みバテつつあったドラムの音をあるべき場所に導く。ミツキはステージの縁に立ち腰を落としてフロアの皆をいっそう煽っていく。依然として下手くそな演奏だが先程までとは空気が全然違いまるで沸騰しているかのようだ。気づくとミツキは、挑戦的な笑顔で以て私のことを見ていた。ここにある私の両目を確かに見つけていた。そしてふたたびフロアにいかずちを、「ハルちゃんも!叫べ!」と、今度は私の名前とともに落とした。
「ハルちゃんはさあ、なんだかいつも自信なさそうよね」と、ある日の昼休みに、職場の近くの定食屋で、ミツキはそう言った。「仕事できるし、頼りになるし、みんなハルちゃんのこと信頼してんのにさ。ハルちゃんだけが自分のことを信じてない感じ」と、私にそう言った。そう? そんなふうに見えているかなと、そのとき私は、はぐらかすばかりで、ちゃんと話せなかった。
ライブは続く。最後のサビへと続く。スピーカーからほどばしるミツキのいかずちと沸騰するフロアからの熱とがぶつかりあう。私は理解した。どうしてこんなに下手くそな演奏でこんな狂乱が起き得るのかを私は理解した。この演奏が確かに、ここにいる私達に向けられたものだからだ。指揮棒を握る先生でもコンクールの審査員でもなく私に向けられた声だからだ。
もう呼吸は苦しくなかった。やがて曲は終わり、気づくと私はこぶしを握っていた。それから、それを、ステージ上のミツキに見えるよう頭上に突き上げた。

あとがき
そこで歌われたのはきっと、まだ傷が癒えていないにもかかわらず地道に誠実に、信頼を積み重ねてきたひとに向けた言葉だったのだと思います。
2026/05/23/辺川銀


