弱い風が吹く。斜陽を受けて黄金色に染まった、私の畑の作物の穂が、波打つ水面のように、きらきら光って揺れた。畑の脇に設置したスチール製のベンチに腰を降ろし、首に掛けたタオルで額の汗を拭うと、都市まで真っ直ぐ続く長い道の先から、近付いてくるエンジンの音が私の耳に届いた。都市の企業に勤めている息子が帰って来たのだろうか。或いは孫娘を乗せたスクールバスかもしれない。私たちが暮らしている青い煉瓦の家の方向からは、息子の嫁が作るミルクシチューの柔らかい匂いがここまで香ってくる。あのミルクシチューは、七年前に他界した妻の好物だった。
私は先月で八十歳を迎えた。畑仕事は今も続けているが、寄る年波から目を逸らすこともいよいよ難しく、近頃は物覚えも幾らか悪くなった。
とはいえ何十年か前に、事業に失敗して都市を追われ、この土地に流れ着いたばかりの頃のことは、昨日のことのようにはっきり思い出せる。当時のこの場所は死んだ土地だった。今にも砂漠に変わろうかという荒んだ土地だった。土はほとんど水気を含まず、乾ききっており、雑草さえも生えてはいなかった。もちろん種など撒いたところで何も育たなかった。けれども他に行く場所もなかったから、私はこの土地にしがみつくしかなかった。来る日も来る日も、ひび割れた土に鍬を立て続けた。何年もの歳月を費やして土を耕した。ここに作物さえ育てば、金と食べ物を得て、幸せな人生を取り戻すことが出来ると、あの頃の私は、心の底から信じきっていた。
スクールバスに乗って帰宅した孫娘は沈んだ顔をしていた。両目の周りを赤く腫らしていた。白い頬には涙の跡が薄く残っていた。何かあったのかい? と私が尋ねると、ボーイフレンドと喧嘩をしたのだと、孫娘は答えた。
「それも今日だけじゃないのよ。近頃は会う度に言い争いばっかり。付き合い始めたばかりの頃は毎日あんなに楽しく過ごしていたのに」
孫娘のボーイフレンドのことなら私も知っている。過去に一度、この家に招いたことがあるのだ。年齢の割に幼く、頼りない容姿の少年だったのだが、優しい目をしていた。ふたりはなかなか悪くないカップルに見えた。にもかかわらず今は諍いを繰り返しているのだという。
「ねぇ。おじいさん。楽しい時間はどうして終わってしまうの? ずっと楽しいままだったらいいのに。そういうふうにどうして出来ないんだろう」
孫娘は声を震わせながらそう言い、また涙を流した。
その晩。嵐が来た。大粒の雨が家の屋根や壁を爆撃のように打った。風は轟々と竜の唸り声のような音を立てて吹いた。畑の作物が駄目になってしまうのではないかと息子夫婦が心配してくれたが、駄目になったならば、その時はその時だと、私は彼らに言った。もちろん私自身、作物の安否を心配してはいるが、畑が嵐に見舞われることなど、もちろん過去に何度も経験してきた。被害が出ずに済むこともあったが、丹精込めて作ったものがほんの一晩で全滅したことも一度や二度ではない。今回どちらに転ぶかは分からないが、唯一確かなことは、私自身がこの嵐に対して、出来ることなどないということだ。ただただ被害が小さく済むよう、静かに祈るしかない。
この土地の土から最初の作物が育ったのは、私がここにやって来てから、数年の月日が流れた後だった。これでようやく人生をやり直せる。幸せになれると、あの日の私は泣いて喜んだ。だけれどそれは甘い考えだった。それから先の月日も、私にとって、決して簡単なものにはならなかったからだ。雨が全く降らない夏もあれば、逆に幾つもの嵐に見舞われる年もあった。都市の人間がここまでやって来て、この場所にビルを建てようなんてしたことだってあった。色々なことがあったが、結果的に私は、これまでなんとかこの土地を守ってきた。楽に過ごせた時間などは、ほんの僅かもなかったように思う。
翌朝になると嵐は去っていた。私は目を覚ますと、孫娘とふたりで、すぐに畑の様子を見に出かけた。大きな水たまりがそこらじゅうにあって、雲ひとつない空を映し出していた。作物は全体の一割ほどが雨風になぎ倒されていたが、残りの大部分は無事に済んでいたので、私たちはほっと胸をなでおろした。孫娘は昨日の泣き顔が嘘のように晴れ晴れとした表情をしており、私は嬉しく思った。もう半月ほどで収穫の季節が来る。畑いっぱいに広がる、この黄金色を、家族四人で綺麗に刈り入れるのだ。それから冬を越し、春になったら新たな種を蒔く。そういうことを繰り返してきたし、きっとこれからも続けていくのだろう。この営みが簡単になる日は恐らくこないだろうが、それもなかなか、悪くはないはずだ。