踏まれて死んだ小さな蛾のように


 電車の中でわたしは目を覚ました。だだん、だだん、と規則正しい車輪の音が聞こえた。車両の中にはわたしだけしか居ない。窓の外の様子は暗くてよく見えないが遠くの方に民家の明かりがぼんやり浮かんでいる。目の周りがひりひり痛んで暑い。どうやら泣きながら眠っていたみたいだ。ぼんやりとした意識のままでわたしは視線を上げた。中吊り広告を見上げると芸能人の熱愛報道や政治家のスキャンダルについて書かれた見出しが並んでおりわたしはそれを何度も目で追った。枯れ葉のような色をした小さな蛾がわたしの視界をふらふら横切った。蛾の姿が見えなくなってしまうとわたしは目を瞑った。そしてふたたび眠りに落ちていった。

――

 わたしは田舎の小さな町で生まれた。町には海があった。父はわたしが生まれて間もなく海に飲まれて死んだ。一方で母は父が帰らぬひとになってからというもの新興宗教に入信しそれに没頭した。朝から晩まで不思議な呪文を唱えながら過ごすようになった。母はその呪文について「世界を平和にするために毎日かならず唱えなければいけないもの」なのだとわたしに説明した。世界を平和にすることは母にとって非常に重要なことのようだった。だから母は娘であるわたしのことを蔑ろにしてでも呪文を唱え続けた。もしもわたしが空腹だとか病気になったとかそういうことを訴え、呪文を唱える邪魔をしようものなら、母はわたしに対して、怒鳴ったり殴ったり暗い部屋の中に閉じ込めたりなどという重い罰を与えた。

 わたしはそういう仕打ちを日常的に受けて育った。幼いころはそれを疑問に思うこともなく耐え忍んできたのだけど、年齢を重ねて他所の子の親と自分の親とを比較できるようになると、自分の母はおかしいのだということに気付きはじめた。だけど気づかなかったほうが良かったのかもしれないと思うこともある。気付いてからというもの、わたしは自分の母に対して強い恐怖を抱くようになったからだ。家の中で母と顔を合わせただけでも身体が震え出すようになった。自宅のベッドで眠ることが出来なくなり近くの公園のベンチで夜を明かすこともあった。母と一緒に生きることなど出来ない。そう思った。だから十八の時に町を飛び出し都会で暮らし始めた。

 何も持たずに故郷を捨てて都会にやって来たわたしには強さが必要だった。少しずつだが仕事を覚えてお金を稼ぐことが出来るようになったし空いた時間で勉強だってした。生き延びるために汚いこととかずるいことも少しだけ覚えた。はじめのうちはひとりぼっちだが友人を作ることも徐々に出来るようになった。恋人だって出来た。そうするうちに都会に来てから十年過ぎていた。今のわたしは母親の影に四六時中怯えていた頃の自分とはすっかり別人だ。今のわたしは健康だし自立しているし理不尽な暴力に脅かされたりしない。わたしはきちんと強さを身に着けた。強くなったのだ。

 先週わたしは恋人の家に呼ばれた。恋人の両親との食事に誘われた。わたしはそれまで交際してる男のひとの家族と顔を合わせたことなんて一度もなかったから酷く緊張した。もし嫌われたらどうしようという不安を抱きながら当日を迎えた。結果的にその心配は杞憂に終わったけど彼の両親との対面はわたしに対して違う意味での衝撃を与えた。何故なら彼の父親や母親は彼とかわたしのことを怒鳴ったり殴ったりなどしないひとだったからだ。わたしは自分の母の異常性について頭では充分理解しているつもりだったのだけれど、いざこうして他所の家庭の様子に触れてみると自分の親との違いというものを肌で感じてしまい大きなショックを受けた。

 母に会いに行かなければいけない。恋人の家を後にしてわたしはそう思った。あのひとに対する恐怖をしっかりと克服する必要があるように感じた。都会で過ごした十年を経て自分が強くなったということを証明しなければいけない。わたしはもう母の顔色を伺いながら寝ても覚めても震えていた弱くて小さな子どもではないのだということを確かめなければいけない。わたしは土曜日の朝に電車に乗り込んで生まれた町へと出掛けた。老朽化した駅舎から伸びる大通りの様子は幾つかの箇所が記憶と違っていたのだけど、向かいから吹く潮風の匂いは変わっておらず懐かしいと感じた。海沿いの道をずっと歩いて行き、わたしは自分が十八歳まで育った家を訪ねた。

 十年振りに顔を合わせた母はわたしの記憶にあるものよりも小さな身体をしていた。だけれどその窪んだ眼窩の奥にある両目は、わたしの姿を捉えるやいなや猛禽のようにぎゅっと鋭くなり、わたしを睨み据えた。それはかつてわたしのことを罵り殴り閉じ込めて折檻した時のそれとまったく変わりがなかった。だから母に睨まれたわたしは何を喋ることが出来ないまますくみあがってしまった。何かを喋らなければいけないと思ったが何も喋れなかった。自分の歯の根がカタカタと震える音が聞こえた。わたしがなにも言えずにいると母は突然あの気味の悪い呪文を唱え始め手元にあった硝子のコップを手にとってわたしに投げつけた。それはわたしの耳元を掠めて壁にぶつかり高い音を立てて粉々に砕け散った。わたしは十年前と同じく母から逃げるようにして実家を後にした。

――

 電車の中でわたしは目を覚ました。だだん、だだん、と規則正しい車輪の音をバックに若い男女や子どもや老人の話す声が聞こえた。車両の中はそこそこ込んでおり窓の外には無数の街灯が灯っていた。わたしが泣き疲れて居眠りをしているあいだに、電車は都会へと戻ってきたみたいだ。依然として目元がひりひりする。きっと涙で化粧もすっかり落ちているだろうから今のわたしは酷い顔をしているに違いないなと思った。ふと足元を見ると枯れ葉のような色をした蛾の死骸があった。それを見つけてからふたつ目の停車駅でわたしは電車を降りた。

 電車を降りたわたしは十メートルほどホームを歩き改札階への階段を登った。自分の足が昨日までより重たくなってしまったように感じた。この十年でわたしは充分強くなった。強くなったと思い込んでいた。だけど気のせいだった。結局わたしは母を目の前にして何も言うことが出来なかった。弱くて無力な子どものままだったのだ。階段を登り切って改札を通るとそこには恋人が待っていてくれた。彼の顔を見てわたしはまた泣いた。この十年でわたしに起こった唯一の変化といえば、こうして迎えに来てくれる相手に出会ったことぐらいだ。
 

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