わたしは薔薇です。海の見える崖の上で静かに暮らしています。わたしはひとりきりです。けれどこの場所での暮らしはとても豊かです。穏やかな波の音や心地の良い風の音がいつでも聞こえてきます。暖かい日差しや、優しい雨、豊かな土によって生かされていることを喜び、夜になったらつきのひかりや星の瞬きを眺めながら、朝が来るのを待ちます。わたしは植物ですので、空を飛んだり歩いたりしてこの場所から移動することは一切出来ませんが、こうした暮らしに不平や不満を抱いたことはいちどもありません。
先の長雨が止んだ日を境に、一人の女性が毎晩、この崖の上を訪れるようになりました。人間の女性です。彼女はここに来ると、先ずは決まって、わたしをそっと抱きしめてくれます。わたしの細い体や、薄い葉や、赤い花びらを傷つけることのないよう、とても丁寧に。けれども一方で、わたしの身体には無数の棘が生えていますので、白くて弱い彼女の身体や、わたしに触れるたびに傷を増やしていきます。彼女の存在や行いのすべてが、わたしにとっては非常に不思議でした。なのである時。わたしは彼女に訊いてみたのです。あなたはいったいどこからやってきたのですか?
「私はずっと狭い部屋に居た。閉じ込められていた。扉には錠前が掛かっていた。部屋には水がなかった。だから私はいつも乾いていた。一日に一度だけ男が部屋に来て私に水を与えた。男は水と引き換えに言葉を要求した。『愛している』とか『幸せだ』とか。そういう言葉を口にするよう私に要求した。それを拒むと水は貰えなかった。私はあの男のことを強く憎んでいたけど、あの男から与えられる水がなかったら生きていくことができなかったから、言われた通りにした」
彼女の声はわたしがこれまでに聞いたどんな音とも違ったものでした。虫の鳴く音色や草木の擦れる音は確かに素晴らしく、水平線の向こう側から聞こえてくる船の霧笛の音も素敵なものなのですが、それらの音と比較をしてみても、彼女の声はわたしにとって唯一無二でした。なぜならその声は、他の誰でもなく、わたしに対して何かを伝えるための音であったからです。わたしはずっと、ひとりでここにいたので、そうした種類の音を聞いたことが一度もなかったからです。わたしはそれを尊く感じました。
「だけどある時。あの狭い部屋に男は来なくなった理由は分からなかった。水を得る手段を失った私はもがき苦しんだ。『愛している』『愛している』『私は幸せだ』意識が朦朧とする中、男が私に何度も求めてきた言葉を、虚空に向けて吐き出し続けたけど、それでも男はやって来なかった。『愛している』『だから水をください』。そうして何日かが過ぎ、いよいよ乾いて死ぬのだろうなという考えが脳裏を過ぎった時、部屋の外から水の流れる音が聞こえたんだ。雨の音だった。残る力を振り絞って私は立ち上がり扉に手を伸ばした。扉には錠前が掛かっていた。けれど錠前は壊れており簡単に開けることが出来た。いま思い返すとあの錠前はきっと最初から壊れていたんだろう。部屋の外に出るとやはり激しく雨が降っていた。空を仰いで私は口を開いた」
彼女の白い指がわたしの身体に伸びます。彼女の指先はちょうどわたしの棘の先に触れます。わたしの棘によって、彼女の皮膚の表面は音も立てずに切れ、その裂け目にはわたしの花と同じ、真っ赤な色の血が、とくとく溢れ出します。それから彼女は血の溢れ出る自分の指先を舌の先で舐め、大きな目を細めて、ニコリと笑いました。
「部屋を出てから何日かのあいだ。私は雨に濡れながら彷徨い歩いていた。そして雨が止んだ夜にこの場所を見つけた。この場所で花を咲かす薔薇の姿を見つけた。水滴で濡れた薔薇の佇まいは何より美しかった。思わず手を触れた。確かに皮膚には傷がついたが些細なことだと思った。次の日も。また次の日も。わたしは薔薇に触りたいと思った。だから私は毎晩ここに来た。あの部屋に居た私は。傷つくことが怖いからあの男に対して『愛している』と言った。だけれどここに居る私は、傷ついても良いから薔薇に触りたい。私は明日もここに来てもいいだろうか」
彼女が帰った後。わたしはぼんやりと海を眺めながら、彼女のことをずっと考えました。わたしは何か彼女に与えられるものを持っているだろうかと。彼女のことをもっと喜ばせる方法を見つけられたら良いなと。例えばこの赤い花弁をひとつ贈ったなら、私は彼女を喜ばせることが出来るだろうか。なんて。