骨と棲む

 朝。目を覚まして枕元に置いたスマートフォンを手にとって五分後にセットされたアラームをキャンセルするわたしたちの穏やかな朝。隣にはクジラの脊椎骨が静かに寝ているわたしたちの穏やかな朝。わたしとクジラの脊椎骨は一年前から同棲をしている。クジラの脊椎骨がかつて生きて泳ぐクジラだった頃どのように呼ばれていたのかをわたしは知らないけど呼び名がないのも不便であるからわたしは彼をホネくんというあだ名で呼ぶ。ホネくんは三方向に椎弓が伸びており飛行機の尾翼に似た形をしていて人間の赤ん坊ぐらいのサイズがある。わたしは部屋のカーテンを開けてからホネくんをベッドの上から両手で抱き上げると椅子に座らせる。部屋の中には初夏の朝陽が満ちる。「おはよう」とわたしはホネくんに言う。「おはよう」が言えるのは良い生活だと思う。
 
 洗濯機のスタートボタンを押してからテレビを点けて昨日の夜に録画しておいたドラマを再生する。大学を舞台にしたラブコメディでわたし自身が大学生だったとき愛読していた漫画が原作のドラマだ。主人公の女の子は同じサークルに所属する男の子に想いを寄せていてなんとか恋仲になりたいと願っているのだがそれ以上に振られることや嫌われることをまるで世界の終わりのように酷く恐れている。もしも好意を男の子に受け取ってもらえなかったなら自分の価値のすべてが否定されて無に帰して死んでしまうかのように怖れまくっている。その様子がおかしくて馬鹿みたいで可愛らしくてわたしは思わず笑いを漏らしてしまう。

 ドラマを見ながらカウンターキッチンに立ちトーストにジャムを塗ってベーコンエッグを作りトマトとレタスを盛り付けてサラダにしてからカフェオーレを入れると朝食の準備が無事に完了する。口も消化機器も持たないホネくんは食事を取らないが朝食のメニューが並んだテーブルを挟んでわたしの向かいに座ってくれている。だからわたしは「いただきます」と両手を合わせてから朝食を食べ始めることができるし完食すれば「ごちそうさま」を言える。「いただきます」や「ごちそうさま」が言える暮らしは良いものだなあと思う。朝食が住むと食器を洗い洗濯物を干す。洗顔をして歯を磨き寝癖を治して髪型を整えそれから化粧もする。「いってきます」とホネくんに告げてから家を出発する。

 会社に着くとパソコンを起動してメールチェックをしながら隣席に座る先輩社員の愚痴に耳を傾ける。今年で二十九歳になった彼女は交際相手がなかなか結婚に踏み切ってくれず焦っているという。「どうしても三十歳までに結婚したい」と語気を強める彼女だが煮え切らない交際相手への怒りを交えて語るその姿は結婚した先にある共同生活に思いを馳せているというよりは早く結婚しなければならないという強迫観念に追いかけられているかのように見える。わたしは適当な相槌を返しながら受信ボックスを流し見て対応が必要なメールにだけ適当な返信を返していく。
 
 仕事が一段落した段階で先輩たちよりもすこし早く休憩を取り社内の売店でサンドイッチとコーヒー牛乳を買ってから空いている公園のベンチでそれらを無言で口に運んでいく。ちょうど食べ終えたところで男がやって来る。同じ会社の違う部署に所属しており去年までわたしの恋人だった同い年の男だ。「最近どう?」などと言いながら男はわたしの隣に腰を下ろす。「別に何も」とわたしは言う。「新しい彼氏できた?」男はニヤニヤと笑みを浮かべながらそう訊く。わたしはそれを無視する。「まだなら俺とやり直したら良いのに。男がいないと君は寂しくて耐えられないだろう?」わたしは席を立つ。この男のわたしに対する態度。わたしのことを見下すような態度。こうだろうと決めつけて断定的にものを言う態度。交際していたときには仕方がないと諦めていたが今は明確に不愉快だと感じる。

 夜になり仕事を終えると寄り道をせずまっすぐ家路につく。かつてのわたしならば不愉快な思いをした今日のような日は決まってひとりで飲みに行き足元がおぼつかなくなるまでアルコールを摂取したし悪酔いしたことによりいっそう不愉快な事態を招くことさえ少なくなかったがいまのわたしはますぐ自宅を目指す。なぜなら家には同棲相手のホネくんが待っているからだ。家に帰り着くとホネくんは朝と同じ格好で椅子に座っておりカーテンが空いたままの窓の向こう側に灯る街の灯は深い深い海の底で発光しながら暮らすいきものたちをわたしに連想させる。わたしは部屋の明かりを点けないままで「ただいま」を言いさらさらとしたホネくんの表面に触れる。「ただいま」を言える暮らしなら明日もわたしは続けていけると思う。
 
 一年前までわたしが男と交際していたのは「おはよう」や「いただきます」「ごちそうさま」「いってきます」「ただいま」「おかえり」「おやすみなさい」と暮らしの中で言い合える相手が必要だったからだ。男はほとんどわたしの意思とか気持ちを尊重することなくわたしのことを弱く愚かでコントロール可能なものとして扱ったが私自身も当時はそれを仕方ないと思っていた。なぜなら当時のわたしは自分に価値などないと思っていたし価値のないものを大切にするひとはいないからだ。なので粗末に扱われることも自分を粗末に扱うような男としか交際できないことも仕方がないと諦めきっていた。ホネくんに出会うまでは。

 一年前のよく晴れた海に酔った勢いでたどりついた知らない街の知らない浜辺でわたしはホネくんに出会った。波打ち際に漂着しているクジラの脊椎骨を発見した。星の光と海水を浴びて静かに光る飛行機の尾翼によく似た脊椎骨は子どもの頃に博物館で見た骨格標本と同じ形をしていた。脊椎骨がここにたどり着くまでどんな時間をへてきたのだろうかとはっきりしない頭で以ってわたしは思いを馳せた。かつては巨大な全身を持ちこの海を悠然と泳いでいたのだろうか。命を落としたそのあとは海底に沈み底に住む生き物たちを育んだのだろうか。気付けばわたしはおぼつかない足取りで波打ち際へ近づき脊椎骨を両手で抱き上げていた。
 
 自分で作った夕飯を少しのお酒と一緒に食べるとテーブルを挟んで向かいに座るホネくんに「ごちそうさま」を言う。テレビをつけると海洋生物の生態を追ったドキュメンタリー番組が眺めていたのでホネくんと一緒にそれを眺めながら洗濯物を畳んだりお風呂を沸かしたり爪にマニキュアを塗ったりして過ごす。番組が終わり爪も乾くと浴槽に浸かって本を読みながら一時間ほど過ごす。お風呂から出て髪を乾かしスキンケアも済ますと椅子に座っているホネくんを抱き上げてベッドに移動させる。それから部屋の明かりを消してわたしもベッドに入る。アラームをセットしたスマートフォンを枕元に置いたらホネくんの表面をてのひらで撫でてから「おやすみなさい」を言って目を閉じる。「おやすみなさい」を言えるのならば今夜もわたしはよく眠れるはずだ。


 

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