沿岸を走るローカル列車に乗ってわたしは目的地に向かう。車内は空いている。四角い窓枠の中にはきらきら光る海面に浮かぶ幾つもの小さな島々が現れては消える。わたしは乗車前に駅前の書店で購入した漫画本をバッグから取り出しページを捲り始めた。これはわたしが高校生の頃から連載されていた漫画の最終巻だ。三ヶ月ごとに発売されるこの漫画の新刊は約六年間わたしにとって大きな楽しみだった。にもかかわらず数ページだけ読み始めたところでわたしは漫画本を閉じて自分の膝の上に置いた。内容がまったく頭に入ってこなかったからだ。
わたしがこれから会いに行くのは高校時代にクラスメートだった男の子だ。わたしにとって最初の恋人だった男の子だ。わたしが過去に唯一交際した男の子だ。わたしたちは高校を卒業した後で交際を始めた。わたしたちはそれぞれ違う県の大学に進学していたから会える頻度はあまり多くなかった。それでもわたしは彼と共有できる貴重な時間をとても大切に思った。ゆるやかに育つ植物に水をやるような気持ちで関係性を育んできたつもりだった。だが交際を始めてから半年ほど経った頃に「他に好きなひとができた」と彼から言われ交際は終わった。
それから二年ほど会っていなかったが昨年末に帰省した時たまたま顔を合わせた。それをきっかけにわたしたちはふたたび連絡を取り合うようになった。就職活動で近くを訪れた際にはまるで普通の友だちのようにふたりで食事にでかけた。眠れない夜にはまるで過去に交際したことなどなかったかのようにメッセージをやり取りした。そして先日「別れたことをすごく後悔している」と彼は電話でわたしに告げたのだった。「できることならまたやり直したい」と震える声でわたしに言うのだった。わたしは今日その返事を告げるために彼に会いに行く。
「他に好きなひとができた」と言われて別れてからわたしがひとりでどれだけ泣いたかを彼は知らないだろう。泣いた事実を言葉にしても流した涙の熱や味までは伝わらないだろう。彼のことを考えても泣かなくなるまでにどれだけの月日を要したかは伝えることができる。でもそのたびに噛み締めた唇の痛みを彼が追体験することはどうしたってないのだ。彼との交際を始めた時わたしは彼の全部を知りたいと思った。わたしの全部を知ってほしいとも思った。もしも再び恋人同士に戻ったとしても以前と同じ交際をやり直すことはできないのだと思う。
物心ついた時わたしは既にお姉ちゃんだった。わたしには三人の弟たちがいる。わたしはいつも我慢する役だった。好きなお菓子も弟たちに求められれば譲った。家族で遊びに出かけるときも弟たちの希望を優先した。お姉ちゃんだからわたしには我慢する役割を務める義務があった。わたしひとりが我慢すれば丸く収まった。こうした振る舞い方は学校の教室でも変わることがなかった。他のひとが嫌がる役回りを笑顔で引き受ける。誰かが我慢をしなければいけないなら自分が我慢する。自分に用意されている人生はそういうものなのだと思っていた。
彼と交際して驚いたことがある。「もっと我儘を言ってほしい」と彼はわたしに言ってくれたのだ。「誰かのための犠牲にならないために。あなたが笑えるために。我儘を言えるようになってほしい」と。そんなふうに言われたことはなったのでわたしは戸惑った。いざ自分の希望を口にしたら嫌われるのではないかと怯えた。だが彼は実際にわたしの希望をできるかぎり汲んでくれた。会える時はわたしが行きたいお店に一緒に行ってくれた。観たい映画を一緒に観てくれた。わたしは少しずつ我儘の言い方を覚えた。わたしはそれがとても嬉しかった。
「他に好きなひとができた」と言われて別れてから二年半ほど経った。今ではさすがに思いだしても涙は出てこない。現在の彼と話していても特に悲しくはならない。だがそれでもわたしの心の奥の奥には彼によってつけられた傷跡が依然として残っている。痛みもしない白い傷跡だ。見て見ぬ振りをしようと思えばできないこともないが傷跡自体がなくなることは今後もないだろう。だが一方で昨年末に再会してからというもの彼との交流を楽しく思っている自分もいる。ふたりで食事にでかけた日の帰り道など手を繋がないことを不自然にさえ感じた。
もしわたしが復縁を断れば彼はおそらく悲しむことだろう。もしわたしが復縁を受け入れればきっとすべてが丸く収まるだろう。だが彼を悲しませないために復縁を受け入れる選択をするなら。古い傷跡から目を背けて復縁を受け入れる選択をするなら。それはかつての彼とわたしを裏切る行為であるような気がする。「誰かのための犠牲にならないために。あなたが笑えるために。我儘を言えるようになってほしい」そう言ってくれたかつての彼を裏切る行為であるような気がする。彼の言葉を喜んだかつてのわたしを裏切る行為であるような気がする。
沿岸を走るローカル列車に乗ってわたしは目的地に向かう。車内は空いている。四角い窓枠の中には水平線に沿って走る船の姿が見える。わたしの膝の上には一冊の漫画本が置かれている。この漫画はわたしが高校生の頃から連載されておりテレビアニメや劇場版にもなった。劇場版が公開された時わたしと彼は恋人同士だった。ふたりで映画館に行った時のことを思い出すことができる。彼はわたしと復縁したいという。わたしは今日その返事を告げるために彼に会いに行く。だだんだだんと車輪の音は規則正しく鳴る。目的地には間もなくたどりつく。
あとがき
このお話のモデルになってくださった方からコメントをいただきました。
「幸せになってね。」