車輪よ空へ、翼よ町へ

 今日も放課後は中学校から自転車で二十分ほどの場所にある図書館で勉強をして過ごした。いつ来ても空いているこの図書館は建物が古くカビ臭いうえにエアコンの効きもいまひとつとお世辞にも居心地が良いとはいえないがこの町に僕が落ち着いて勉強できる場所はここしか存在しない。狭い自宅には僕の個室などないし母が仕事に出かけている時間帯であっても祖母がひっきりなしに話しかけてくるから集中なんかできたものではない。イオンモールのスターバックスに行けるようなお金の余裕はない。学習塾にはもちろん行かせてもらえるはずなどない。学校に居残って問題集を広げようものなら誰にどんな嫌がらせを受けるか分かったものではない。だから必然的にこの寂れた図書館に通うしかないのだ。この図書館でユメコさんと知り合ったのは去年の今ごろだった。ユメコさんはいつ来ても空いているこの図書館にいつ来てもいたので僕らは自然と言葉を交わすようになった。

 ユメコさんは僕よりも四歳年上で当時は十八歳だったが僕は彼女の名前とか年齢を知るよりも先に彼女の家に招かれセックスを経験した。生まれてはじめてしたセックスでは許された心地がした。僕の母は僕が小学生だった時に父の不貞が原因で離婚をしているから性にまつわるあらゆることを蛇蝎のごとく憎んでおりここ数年で二次性徴による変化を経ている息子の僕に対してさえ刺々しい嫌悪感を隠すことがなかった。だから僕はテレビに映る女のひとや同級生の女の子を見てどきどきしたりそわそわしたりする際には毎回「お前は許されない思いを抱いているのだ」と母から咎められているかのような錯覚に苛まれた。でもあの日まるで海のようなユメコさんの身体にいざなわれるがまま自分の身体を沈めていたときにはそういったものから許された心地がした。終わったあとでそのことを告げるとユメコさんは「大事に育てられたんだねえ」と苦笑を浮かべながら僕の頭を撫でた。
 
 僕はこの町が嫌いだ。イオンモールはあるが美術館も博物館もコンサート会場もなく古臭い図書館をいつまでも改装しないこの町が嫌いだ。この町で生まれ育ちこの町に根を下ろしたひとたちばかりで営まれているこの町が嫌いだ。母からは経済的な事情から公立の高校にしかやれないと釘を刺されているし大学進学など以てのほかだろうがそれでいつかはここを出ていきたい。もっとも僕がこう思うのは今も学校で心地良い人間関係を気づけていないことと無関係ではないのだろう。現時点で教室での人間関係に不満がないひとであれば地元を離れる必要性を感じる機会だって少ないような気もする。例えばまもなく四十歳になるというのに飲み仲間は依然として中学時代の同級生ばかりだという僕の父親がそうであるようにだ。中学時代の同級生だった僕の母と離婚しあとで別の同級生と再婚し新たにふたりの子どもをもうけて先日近所に新居を建てた僕の父親がそうであるようにだ。

「どうしてこんなつまらない田舎に生まれちゃったかなあ。どうしてあんな両親のもとに生まれちゃったかなあ。そんなふうに思ったのは一度や二度じゃないよ」毛布の中でユメコさんがそう語ったのは去年の秋のある雨の日だった。「生まれた場所が都会だったら。違った家だったら。もっと選択肢のある環境であったら。違った人生があっただろうと何度も思ったよ。いったいわたしがどんな罪を犯したっていうのか。いったい何の罰でこんな境遇なんだか。ちょうど君ぐらいの年齢の頃にはいつも考えてた」その日ユメコさんの家には彼女の他に誰もおらず割れた窓ガラスから吹き込んでくる風がひどく冷たかった。僕のお腹に額を押し当てながらユメコさんは続けた。「でも考えれば考えるほど、こんなこと考えても意味ないって思った。何の罪とか何の罰とか仮に理解したって、明日から都会に行けるわけじゃあないし、親父が今夜から酒を飲まなくなるわけでもないんだから」
 
 十九時になり閉館時間になったので勉強道具を片付けて図書館の外に出ると周囲はまだ明るい。駐輪場の屋根の下にはつばめの巣があり地面には白い糞がたまっていた。去年の今ごろも僕は同じ場所でつばめの巣を見つけた。その時は知り合ったばかりのユメコさんが隣に立っていた。「この地球でいちばん最初に空を飛んだ生き物の気持ちが分かるかい。きっと地上が嫌で仕方なかったんだよ」そう言ったユメコさんは今この町にはいない。今年の春から大学生になりこの町から出て都会で暮らし始めた。学費の安い夜間部に籍を置き築四十年の木造アパートに住んで昼間は飲食店で仕事をこなし夜は大学に通うという生活を送っているのだという。先日電話越しに聞いたユメコさんの声を思い出しながら僕は自転車にまたがる。「思ったよりも忙しいからわたしはしばらく帰れないけど、君がこっちに遊びに来るなら何かごちそうするよ」ハンドルを握りしめてペダルを強く踏み込む。


 

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