氷の世界のクモたち

 重い水圧と浮かばない氷山によって寒く暗く閉ざされた太陽の光がまったく届かない海の底のいちばん深いところにところに、氷の世界はある。氷の世界にはどろりと溶けたゼリー状のくらげや、砂の中をしゃかしゃか走り回る多足の甲殻類、宙一面を覆い隠す大きな蛸のばけもの、骨だけで泳ぎ回れる目のない魚なんかが暮らしている。私たちクモも氷の世界に居る。クモは水掻きのついていない手足をそれぞれ二本ずつ、合計四本持ち、水中で息をすることができず肺で呼吸をする。正直なところ深海に住むにはあまり向いていない身体の造りだが、浮かばない氷山の裂け目の空気がある空間を利用し小さな町を築いてそこで生活している。遠くの方でごぽっと泡が壊れる。

 冬の訪れと同時に銀色の船に乗ったアカリの一団が氷の世界に来た。アカリは私たちクモと同じく水掻きのない二本づつの手足を持ち、私たちと同じ言葉を話す。だけどアカリは氷の世界の住民ではなく、土の世界から年に一回毎年冬に氷の世界を訪ねて来る。アカリが暮らす土の世界は太陽の日差しが当たる陸の上にあって光や空気に不自由しない世界だ。氷の世界にアカリが来るのは貿易するためだ。氷の世界にたどり着いたアカリの船長は、クモの首長に炎の灯った立派なランプを渡した。代わりにクモは巨大な塩のかたまりをアカリの一団に差し出す。太陽の光がまったく届かない氷の世界に暮らす私たちにとってアカリがもたらすランプはとても重要なものだ。一方で土の国では塩がとれないから、私たちが差しだす塩も彼らにとって等しく貴重らしい。氷の世界に居る間、アカリは常に深海服と呼ばれるビニールの服を着ている。

 冬の訪れとともにやって来たアカリの一団は氷の世界に七日から十日のあいだ滞在し、国賓として手厚くもてなされる。滞在中のアカリたちは各々思い思いの場所を観光したり好奇心旺盛な若いクモたちと交流を持ったりする。今年のアカリは氷の世界がよほど気に入ったのか例年になく長い滞在になり十二日間を過ごしたが、十二日目の午後になると乗って来た銀色の船に塩の塊を積み込み、見送りに集まったクモたちに向けて一同、深々お辞儀をした。船の動力が動くと、周囲の生き物たちは飛び退き、遠くへ逃げて行く。歓声を浴びながらアカリの一団が船へと搭乗していく。そのときに私は、アカリに混じり彼らの陰に隠れるようにしてひっそりと乗り込んだひとりのクモの少女を発見した。全員が登場を終えると、船は港を離れてすぐに見えなくなる。

 アカリや土の世界に羨望を抱くクモは、わりかし沢山居る。ランプがなくても光や空気に不自由することのない土の世界の生活に憧れ、年に一度やってくるアカリについて行きたがる若いクモたちも決して少なくはない。そして実際、こっそりと船に乗り込み密航を試みる者も毎年、ひとりかふたりは居る。私もかつてはそんなひとりだった。まだ大人とも子どもともつかない微妙な年齢だった頃に、私は、例年通りここにやって来たアカリの一団のうちのひとりの男と親しい関係を結んだ。彼は優秀な技術者で、野暮ったい深海服を身に着けていてさえ優雅に立ち振る舞う美しい男だった。その年のアカリはちょうど一週間しか滞在しなかったが、私と男が恋に落ち、離れたくないと思うまでには充分な時間だった。彼と仲間たちがここを離れる際、私もまた先ほどのクモの少女と同じようにこっそりと船に乗り込み、土の世界へ向かった。船は浮かんでいき、私は楽園に行くのだというふうに思った。

 土の世界は実際素晴らしかった。太陽の光は後ろめたくて笑ってしまうほど明るく、森の中の澄んだ空気ときたら食事を摂ることさえ勿体無く思えるぐらい美味しい。彼との暮らしもとても良いものだった。彼の仕事場には何隻もの銀色の船が一列に並べられていて壮観だったが、彼が見たこともない道具を手足のように用い船の内側の機械を整備していく様はそれ以上に華麗だった。だが土の国で暮らし始めてからもうじきで一ヶ月が過ぎようとしていた頃、私は突然、体調を著しく壊した。酸素を吸い過ぎ呼吸を行うことが出来なくなってしまった。アカリの医者は私の様子を見て、水圧や気圧の関係によって起こるクモ特有の病気であり氷の国に帰れば自然に治るものだが、土の国に居たままではアカリの技術でも治療することできないという診断を下した。クモとアカリはもともと、ニンゲンと呼ばれるひとつの種族から別れて進化したため、そっくりな見た目でほとんど同じ身体の構造だが、クモの呼吸器官は氷の国の氷山の裂け目にある、あの限られた狭い空間の中にすっかり適応しており、土の国では数ヶ月たりとて生き続けることができないのだという。

 重い水圧と浮かばない氷山によって寒く暗く閉ざされた、太陽の光がまったく届かない海の底の、いちばん深いところに、氷の世界はある。氷の世界にはピンク色をした手のひら大の単細胞生物とか、氷の破片を身にまとうヤドカリに似た生き物、ひっきりなしに触手を動かし続けるイソギンチャクだったり、何百年も眠り続ける硝子のとかげみたいな巨大生物などが暮らしている。近年ではもっとも長い十二日間の滞在を終えたアカリの一団が帰って、見送りのクモたちも引き上げていった後の、誰もいなくなった港で、私は氷の壁を眺める。昔の私と同じように先ほど、銀色の船に乗って土の世界へと向かった名前も知らないクモの少女を、どうしてだか、憎たらしいと思った。

 ここでしか生きられないということを認めてしまった時、わたしは大人になった気がする。なってしまった気がする。なれたような気がする。

 

 

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