エンキドゥはつめたいところにいる

 日曜日のお昼前でした。駅の前にはヒトがたくさん居ました。十二月のはじめで空気が冷たいのでみんな厚着でした。わたしも先週恋人に贈ってもらったばかりの、まだ新しい匂いがする黒いジャンパーを身に着けていました。わたしは恋人と待ち合わせをしていました。駅前の電光掲示板に橙の文字でニュースが流れていました。隣の県でくらげが一匹捕獲されたらしいというニュースでした。駅前にはヒトがたくさん居て、だけど良い天気でした。頭の上を見上げたら白いヒコーキ雲が空の中心をまっすぐ割っていたので、わたしはニコリとしました。

 泡の中に居た頃の記憶をうっすら覚えています。海のとてもとても深いところでわたしは生まれました。海の底からぽこぽこと発生した、おびただしい数の泡たちの中のひとつに、わたしは宿っていました。はじめの頃のわたしは、そんな小さな泡の中で、もっともっと小さな、半透明の身体をしていました。身体を丸めた格好で泡の中に入って、星のように無数の泡と泡との間を、ぷかぷか漂っていました。海を漂う内に身体は少しづつ大きくなり、手が生え脚が生えて、ヒトと同じ姿に、育っていったのでした。そして気が付いた時には、海から出て、ヒトの世界に居ました。以来わたしはヒトとして育って、ヒトとして今日まで、ずぅっと生きてきました。

 約束の時間よりも少し早く恋人はやって来ました。恋人は背が高くて、ひょろりと痩せたひとです。赤いマフラーを巻いていました。マフラーは先月、彼の誕生日に、わたしがあげたものです。冬になっても彼が寒がらないよう、夏の間から少しづつ編んでいました。わたしは手先があまり器用ではないから作る間に何度もしくじりましたが、彼が気に入って普段から身に着けてくれているので、編んで良かったと今では思っています。駅の前にはヒトがたくさん居ました。彼はわたしの手を取り歩き始めました。駅前の電光掲示板に橙の文字でニュースが流れていました。

 わたしのように海の底から生まれて、やって来たもののことを、ヒトはくらげと呼びます。くらげはヒトとまったく見分けのつかない外見をしており、身体の造りもヒトと変わりません。ヒトと同じものを食べるし、ヒトとの間に子どもを作ることだってできます。自分がくらげであることを忘れてしまっているくらげさえ居るのではないかと噂されています。このようにくらげは、普段からヒトの社会にひっそりと溶け込んで生活を送っています。ですが運悪くヒトでないことがバレて、捕獲されてしまうくらげが、年に数人は出ます。くらげはあまり数が多い生き物ではないと考えられているので、発見され捕獲されると、何日かはそこそこ、大きなニュースになります。捕獲されたくらげは研究所に送られ、実験台や研究材料にされます。そしてヒトたちの多くは、くらげを嫌っています。なのでわたしは自分がくらげであるということについて、今までいちども、誰にも言っていません。

 恋人の家に着くと、甘いものを食べて、それからキスをしました。恋人の家には外国語で歌われる穏やかな音楽がいつものように適切な音量で流されていました。空調は付けずに、布団の中にふたりで潜りました。抱き合って身体を触り合って、それから重なりました。彼に抱かれているとき、わたしはこのうえなく、幸せな気分に浸ることが出来ます。だけれど時折、彼を騙しているかのような、申し訳のない気持ちになることもあります。わたしは自分がくらげであるということについて、彼にももちろん、いちども言っていません。同じ布団を被って、腕に抱かれながら、同じ生き物でないことが悲しく、わたしは泣きたくなります。
「きみもくらげだったら良いのに」
 不意にその時、ぽつんと、小さな声で、彼は、呟きました。

 

 

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