僕は教会で育った。
父は神父だった。父のもとには心に痼を抱えたひとびとが毎日訪ねてきた。彼らのために神に祈ることが父の仕事だった。空の上には神が暮らしており、神を信じて強く祈ればひとは救われる。教会を訪れるひとびとに対して父はそう説いた。彼らはみんな両手を合わせて父の話に耳を傾けた。低く静かな声で語られるその言葉に涙するひとさえ珍しくなかった。
僕は父と同じように、神父になるよう育てられてきた。だから僕も神のことをずっと信じてきた。父のことだってすごく尊敬していたし誇りに思っていた。
だけどある時、父は姿を消した。僕を残して家を出て行き、戻ってくることはなかった。
父が失踪した理由は、後にやって来た大柄な男がすべて教えてくれた。父は敬虔な神父としてみんなに知られていたけど、その一方で、隣町の賭博場で博打に溺れる男という裏の顔があったのだというのだ。そして父は博打を打つために隣町の貸し借りから多くの金を借りていたのだと、借用書と書かれた紙切れを僕に見せながら男は説明した。そこに記されているサインは確かに父の字だった。要するに、借金取りから逃れるために父は失踪したのだ。そしてこの大男こそ、まさにその金貸しに雇われた借金取りだった。
僕はこの日を境に、父のことと、父が教えてくれた神のことを、信じられなくなった。
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砂漠の真ん中で僕らは遭難した。
町を出てからの旅路は極めて順調だった。あとはこの砂漠さえ横断してしまえばもう国境は目の前にあるのだ。だけど二日前に砂嵐に見舞われてからというもの自分たちの現在地がさっぱり分からない。とても暑い。強く照りつける日差しが僕の体力を奪い続けている。柔らかい砂は一歩進む度に足に絡みついた。
喉が渇いたので水筒を開けたが中は空っぽだった。もしもの時のために少しずつ飲むよう、遭難する前から心がけていたのに、もう飲みきってしまった。こんな砂漠で水がなければ乾いて死ぬだけだ。
失意のあまり僕が膝をつくと、前を歩く彼は立ち止まって振り返り、自分の水筒を僕に投げて寄越した。彼の水筒はまだ半分近く中身が残っていた。僕はそれをひとくちだけ口に含んで飲んだ。
もう国境はずいぶん近いはずだと彼は僕に言った。太陽を目印にずっと歩いてきたので、向かっている方向は間違っていないはずだと説明してくれた。俺たちは大丈夫だ。彼はそう言って手を差し伸べてくれた。その手を取って立ち上がると僕も思わず笑った。安心したからだ。
彼が大丈夫だというのならば、きっと大丈夫だ。そう思った。
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父が居なくなってから僕は神父になった。自分の生活のため、そして父が残した借金を返すために、仕事をして金を返す必要があったからだ。僕はもう神を信じることをやめてしまったけど、僕は神父になるための教育しか受けてこなかったので、神父の他に出来る仕事はなかった。
神父になった僕のもとには悩めるひとびとが毎日訪ねて来た。彼らは父が失踪した理由を一切知らなかった。彼らのために神に祈ることが僕の仕事になった。神に祈ればひとは救われる。僕は彼らにそういうふうに話した。僕自身はもう神のことなんか信じていないにもかかわらずだ。彼らはみんな両手を合わせて僕の話に耳を傾けた。僕の言葉に涙するひとさえ珍しくなかった。それは途方もなく辛い仕事だった。僕は自分の暮らしのためにみんなを騙し続けた。
ひとはどうして神に祈るのだろう。どうして信じるのだろう。いつしかそんな疑問を抱くようになった僕は、ひとりの時間を使って、小さい頃から読み聞かされていた教典を始めから終わりまで何度も読み返した。だけどそこに書かれている多くの言葉たちは、もはやひとつも本当に思えなかった。
そんな僕の味方になってくれた人間がたったひとりだけ居た。それはあの日、父が失踪した理由を僕に伝えてくれた借金取りの男だった。彼の仕事というのは、父が残した借金を僕から取り立てて、それを彼の雇い主である隣町の金貸しのところに持って行くことだ。にも関わらず彼は、僕が支払う利息の額が少なくて済むよう、金貸しに何度も掛けあってくれた。僕の収入が少なかった月には返済時期を遅らせてくれたこともあった。
どうしてそんなに良くしてくれるのかと訊ねたことがある。すると彼は、自分の親も僕の父親と同じように、金貸しから多くの借金をしていたのだと僕に話してくれた。借金を返すことが出来なくなった彼の両親は、その肩代わりとして、息子である彼を差し出したのだった。それからというもの彼は、借金取りとして、金貸しのもとで働かされているのだという。
嫌気が差すな、お互いに。彼はそう言って笑った。僕も同じく笑った。
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夜がやって来た。遭難してから三回目の夜だ。
砂漠の夜は非常に寒くて厳しい。僕らはテントを張り、寝袋にくるまって寒さをやり過ごした。けれど寒さ以上に辛いのはやはり喉の渇きだ。昼間には半分以上残っていた彼の水筒の中身もずいぶん少なくなった。僕は彼に水を飲むよう勧めた。だけど彼は首を縦には振らず、その代わりに、その水は僕が飲むようにと言った。この乾ききった砂漠で、彼はもう半日以上何も飲んでいない。
僕らは本当にこの砂漠の向こう側にたどり着けるだろうか。いくら方向が間違っていないとはいっても、明日のうちに辿り着けなければ野たれ死んでしまう。僕が不安を漏らすと、彼は笑みを浮かべて、きっと大丈夫だと、静かな声で言った。
彼の言葉を聞いて僕は安心した。彼が大丈夫だというのならば、きっと大丈夫だ。僕は彼のことをとても信頼している。
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ある日の夜のことだ。彼がずいぶん遅い時間に教会を訪ねて来た。教会はたとえ夜中でも門を開いている。困ったひとがいつでも駆け込んで来られるようにだ。彼は肩で息をしておりいつになく焦っていた。そして僕が事情を尋ねるよりも先に、逃げるぞ! 今すぐに逃げるぞ! と大声でまくしたてたのだった。なんでも彼が僕の借金をなかなか取り立てられないから、金貸しは新たに荒くれ者の借金取りを雇い、教会に差し向けたのだという。僕と彼は大急ぎで荷物をまとめると教会を出発した。丘をひとつ越えてから振り返ると、ついさっきまで僕らが居た教会から火の手が上がっていた。
一緒に砂漠を越えよう。教会から立ち上る煙を眺めながら彼は呟いた。砂漠を越えれば国境があり、そこを越えればあいつらも追ってこれないはずだ。彼はそう言った。
僕は彼を信じることに決めた。
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砂漠の砂の上を僕らは歩き続けた。僕らは既に疲れ切っていた。風が強く拭いているせいで、少し呼吸をするだけでも、細かい砂が鼻とか口に入り込んでくる。そのくせ日差しは相変わらず強くて両足はただの丸太の棒のように重たい。もう水筒も空だ。僕の喉もからからだが彼はそれ以上に乾いているはずだ。彼はこの数日でめっきり痩せてしまった。
それでも彼は大丈夫だと言う。だから僕も大丈夫だと思う。なぜなら僕は彼のことを信じているからだ。
ひとはどうして神に祈るのだろう。どうして信じるのだろう。どれだけ教典を読み返しても理解できなかった疑問の答えが今なら分かる気がする。必要なのは神ではなくて、きっと何かを信じることなのだ。神が居るから信じるのではないのだ。何かを信じるために神が存在するのだ。もしも今の僕が彼の言葉を信頼できなかったら、僕はこれ以上、もう一歩だって歩けやしないだろう。
ふと、立ち止まって、僕らは空を見上げた。強く照りつけていた日差しが急に陰ったからだ。いつの間にか空は曇っていた。そして次の瞬間、鼻の頭に冷たいものが触れた。