彼岸花の国

 彼女は右手の親指に指輪を嵌めている。彼女の両親の結婚記念日が刻印された銀色の指輪だ。
 彼女は左手に針を持っている。彼女は針の先端で自分の右手の親指の先を軽く傷付けた。すると彼女の指の先から赤い血の滴が一滴垂れて土の上に落ちた。
 次の瞬間。血の滴が落ちた場所から植物の芽が出てきた。植物の芽はまるで毛糸の先端を引っ張ったようにひゅるひゅると真上に伸び、数秒後には真っ赤な花を咲かせた。彼岸花だ。 
 彼女はそういうふうにして、わたしたちが暮らすこの古い小屋の周りに花を咲かせていく。
 小屋の前には大きな河がある。橋はどこにもない。わたしは河のこちら側で生まれた。河を挟んだ向こう側には巨大な町がある。世界でいちばん大きな都市だといわれていた場所だ。だけどわたしは向こう岸まで行ったことがない。行ってみたいと思ったこともない。
 わたしの頭上はすっかり晴れている。白い日差しは辺りに咲き乱れる無数の彼岸花に陰影を与える。河の表面をきらきら光らせる。
 対岸の町の上空には雲が掛かっている。ただの雲ではない。真っ赤な色の雲だ。あの雲には火の雲という特別な名前がある。

 火の雲というのは何十年かに一度という頻度で起こる自然災害だ。大都市の上に発生することが多い。火の雲の下には炎の雨が降る。一度発生した火の雲はほとんど移動をせずひとつの場所に長くとどまり続ける。炎の雨は時間を掛けて町を焼き尽くしていく。短ければ数ヶ月。長ければ数年。十年以上消えなかった例も記録されている。
 ひとたび火の雲に覆われて炎の雨が振り続けたならば、そこから外に逃れることはとても難しい。その証拠に、対岸の町が火の雲に覆われてからというもの、河を渡ってこちら側に逃れてきたのは彼女ひとりだけだ。

 彼女が親指に嵌めている指輪は元々彼女の父親が薬指に嵌めていた指輪だったという。だけど彼女の父親はあの火の雲がやって来た日に炎に焼かれてしまった。焼け残った指輪は父親の形見として、まだ幼かった彼女に渡された。
 彼女の母親は、焼かれた夫を弔い終えた後、まだ幼かった彼女ひとりを小舟に乗せて、河を隔てたこちら側に逃した。火の雲の下から逃れることはとても難しいが、身体の小さい子どもひとりぐらいだったら、運が良ければ逃げきれるかもしれないという望みに賭けたのだ。その時彼女の母親は、泣きじゃくる彼女にこう伝えたのだという。
「逃げ延びた先で彼岸花を咲かせて。そうすれば必ずあなたのことを見つける。いつか必ずあなたを迎えに行く」 
 
 夜が来たのでわたしは小屋に戻った。河の傍には電気が通っていないので外灯なんかはないけど、対岸の町が燃え続けているのであまり暗くはない。
 小屋に帰り着くと夕飯を作りながら彼女が待っていた。わたしの帰宅に気付くと、彼女は頬に深い笑窪を刻んだ。今日の夕飯はかぼちゃのスープと自宅で焼いたパンだ。
 食事を終えるとわたしは食器を洗い彼女はお風呂を沸かした。それぞれが入浴を済ませるとひとつのベッドで眠った。ここでの暮らしはなかなか悪くないとわたしは思っている。

 その日も彼女は朝からいつものように彼岸花を咲かせ続けた。
 わたしはひとりで川沿いを歩いている。対岸の街は今日も燃え続けている。暖かい風がこちらに吹いてくる。辺りの彼岸花がゆらゆら揺れている。
 ふと。川岸で何か光るものを見つけたのでわたしは近づいた。小さくて白いものが流れ着いていたのでわたしはそれを手に取って眺めった。それはどうやら骨のようだった。人間の骨。たぶんどこかの指の骨だろう。そしてその骨には見覚えのある指輪が嵌っていた。サイズは小さいけど、彼女が親指に嵌めている指輪と確かに同じものだ。 
 彼岸花を掻き分け、わたしは急いで帰った。そして拾った骨と指輪を彼女に手渡した。彼女はそれを手のひらの上に乗せてしばらく見つめていた。この骨はおそらく彼女の母親の骨だ。だけど彼女が驚くことはなかった。
「母がとっくに生きていないことはずっと知っていたよ」
 やがて彼女は寂しげに笑って、静かに口を開いた。
「だって母が私を逃した時。私の姿を見送りながら母が焼かれていくのを、この目で見ていたもの」

 翌日。彼女は普段と少しも変わらない様子だった。泣いたり悲しんだりする素振りも見せることはなかった。いつもと同じようにして家の周りに彼岸花を咲かせ続けていた。唯一の変化といえばこれまでひとつしか嵌めていなかった指輪がふたつになったことだ。ひとつはこれまでどおり右手の親指に。もうひとつは薬指に、それぞれ嵌っている。
 わたしは不思議に思う。彼女の母親はもう決して彼女を迎えに来ることがないのに。どうして彼女は彼岸花を咲かせ続けるんだろうか。

 半年後のある日。わたしが目を覚ますとベッドの上が妙に広く感じた。いつも隣で眠っているはずの彼女の姿がなかった。わたしは慌てて家を出て彼女を探しに行った。だけどどこにも彼女の姿はなかった。
 その日の空は晴れていた。青空には雲ひとつなくてきっと一生忘れないような晴れ方をしていた。河の方に目を遣ると、対岸の町をずっと覆っていた火の雲がすっかり消えていた。
 わたしは咲き誇る彼岸花たちの中に大の字になって倒れこんだ。そしてひとりで声を上げて笑った。 

 火の雲が消えて彼女が居なくなってから更に何年もの歳月が流れた。
 焼き尽くされた対岸の町は徐々に活気を取り戻しつつある。大きなビルや新しい道路が作られ続けている。
 河の向こう側で町が復興に向かっていく間に、わたし自身にも個人的な幸せや不孝が、幾つもやって来ては、通り過ぎて行った。火の雲が消えた直後に、居なくなった彼女と入れ違うようにしてやってきた男と、数年の交際期間を経た後に結婚して娘を設けたけど、娘の年齢が十を数えるよりも先にわたしたちの結婚生活は上手く行かなくなり、男は町に帰って行ってしまった。だから今のわたしは娘とふたり暮らしだ。
 わたしは左手に針を持っている。わたしは針の先端で自分の右手の親指の先を軽く傷付けた。するとわたしの指の先から赤い血の滴が一滴垂れて土の上に落ちた。
 次の瞬間。血の滴が落ちた場所から植物の芽が出てきた。植物の芽はまるで毛糸の先端を引っ張ったようにひゅるひゅると真上に伸び、数秒後には真っ赤な花を咲かせた。彼岸花だ。 
 かつて彼女がやっていたみたいに、わたしはこの古い小屋の周りに花を咲かせていく。
「どうしてママは彼岸花を咲かすの?」
 わたしの親指の先端を見ながら、まだわたしよりも背丈の小さい娘が、首を傾げてわたしに質問する。
 わたしはそれに答えず、静かに笑みだけを返した。



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