声の墓標-第4話

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 桃太郎を自称する男がビル清掃のアルバイトを始めたのは、わたしの家に住まいはじめてから三ヶ月あまりが過ぎた頃だった。それまで働く素振りなんか全然なかったのに、どういう風の吹き回しかとわたしが訊いてみると、「鬼退治に連れて行くべき犬を見つけたが、仲間にするのに金が必要だから、稼がなければいけない」という答えが返ってきた。

 男のいう『鬼退治に連れて行くべき犬』は、駅前のペットショップのショーケースの中に展示されている黒い柴犬だった。すでに仔犬ではなく、『22万円』の値札の右上には『50%オフ!』と書かれたポップが貼り付けられていた。

 犬を買うために、男はそれまでとは別人のように真面目に働いた 週に五日、毎朝六時にきっかり目を覚まして仕事に出掛けていった。勤めはじめてから一週間が経過した頃には「仕事の後に家事をやることがどんなに大変かが分かった」なんて、らしくもないことを言い出し、部屋の片付けや食事の支度もしてくれるようになった。おかげでわたしは結構楽になったが、もしも男が本当に犬を買うなら、この家はペット禁止なので、いよいよ追い出すことを考えなければいけないかな、とも思った。

 ところが男の初任給まであと三日と迫った日の夕方、仕事帰りのわたしが仕事帰りにショーケースの中を覗き見てみると、数日前までそこにいた黒い柴犬の姿はもうそこにはなかった。店員に訊いてみると「なかなか売れないので昨日さらなる値下げをしたところ、ようやく買い手がついた」という答えが返ってきた。

 帰宅後、あの犬が売れてしまったことをわたしは男に話した。男はさぞや落ち込むだろうとわたしは思っていたけど、そんなことはなかった。「それなら仕方がない。鬼退治には苦難がつきものだから。他に良い犬が見つかる日を待つよ」と、ケロッとした顔で男は言っていた。

 犬が売れたあとも、男は清掃員のアルバイトを辞めることなく続けた。帰宅してからはわたしと一緒に家事をこなし、それから寝るまでの数時間でノートパソコンと向き合って「電波塔の鬼」を退治するための仲間を探す、というリズムで生活を続けた。初任給が出ると「今まで迷惑をかけた分」だと言い、その全額をわたしに手渡した。そしてその週末、わたしたちは初めて、ふたりで外食に出掛けた。夏が終わり、秋がやって来ていた。

この作品は、8/31~9/2にかけて行われた、マリネロさんの個展のために書き下ろしました。

最終話に続く>
 

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