私の血の機能


 私の部屋には物があまりない。簡素な木のベッド。小さな冷蔵庫。一対の椅子と机。幾つかの古い食器。そして全身鏡。カーテンの隙間からは冬の朝の白い日差しが入り込んでくる。私は全身鏡の前に立って冷えたフローリングの床に両足の指をきゅっと突き立てる。そして鏡を見遣る。そこに映った自分の姿を眺める。服は着ていない。私の身体は酷く痩せている。肋骨や腰の骨は浮き上がって尖っている。肌は青白く目の下のくまや口元の黒子や頬のそばかすがいっそう目立ってしまう。

 過去に一度だけ性交を試みたことがあった。十代の頃だ。相手は当時好き合っていた同級生の男の子だった。場所は彼の家のベッドの上だった。彼は部屋着のTシャツを着ており私は高校の制服を着ていた。私は彼の手によって身に着けているものを一枚ずつ剥がされていきやがて裸になった。背中やうなじや腰の周りをそっと撫でられた。気持ちが良いと感じたことを今でも覚えている。とても注意深く丁寧な手つきだった。

 幼い頃。私は母のことを愛していた。彼女は暖かくて優しい女性だった。彼女は私のことを他の何者よりも大事に扱った。私が文字を読めるようになった時や自転車に乗れるようになった時には抱きしめてくれたし頭も撫でてくれた。私が熱を出して寝込んでしまった時には朝まで寝ずに傍にいてくれた。私は愛されていた。
 けれど一方で私は母のことを何より恐れていた。何故なら彼女は時折、日頃の穏やかな人柄からは想像できないような、刺々しく苛立った態度を取ることがあったからだ。普段ならば普段ならば気にも留めないような些細なことで怒鳴り散らしたり、突然泣き出すような、情緒不安定な状態に陥ることがあった。何がきっかけで彼女がそうなっていたのか、あの頃の私には理解出来なかったが、分からなかったからこそ、そういう状態の母を私は恐れていた。
 そして私が小学校に入学するよりも少し前の時期に、母は初めて私に手を上げた。頬を張られた時には、最初に熱いと感じ、それから遅れて痛みがやって来た。見かねた父は、母から私を取り上げ、そして離婚をした。それからというもの私は一度も母に会っていない。

 小学生四年生の頃だっただろうか。二学期の頭から転校生がクラスにやって来た。小柄な男子だった。けれどその転校生はいわゆる問題児と呼ばれるタイプの子どもだった。あのクラスは、それまで喧嘩やいじめなど一度も起きたことのない平和なクラスだった。だけど転校生が、担任の先生に暴言を吐いたり、他のクラスメートに殴りかかったりというような事件を度々起こしたので、授業やホームルームは立ち行かなくなった。その転校生は結局、三学期になると、また別の小学校に転向して行って、居なくなったので、それと同時に平穏な教室も戻ってきたのだけど、あんなに和やかだったクラスがたったひとりの転校生によって壊れていく様子は、当時の私にとって衝撃的だった。

 中学校に入学してから少し経つと私は初潮を迎えた。そして定期的に生理が訪れるようになると自分の変化に私は恐怖した。生理の前後になると、私は酷く神経過敏になった。近所の犬が夜中に少し鳴いただけでも意識が逆立った。自分の身体が急に不潔なもののように思えてきて休み時間の度に手を洗いに行った。私の心はまったくといっていいほど、私の思う通りに動かなくなってしまった。さながら、たったひとりでクラスの平穏を破壊したあの転校生が、私の心の中に現れたかのように。普段の私の意思とは大きく違うものが、私の心の操縦桿を奪い、立ち行かなくしていく。
 そしてある日。父を傷つけた。小さなきっかけから言い争いになり、その末に父の頬を、右手で強く張った。父を叩いた私の掌は、最初に熱を帯び、それからひりひり痛んだ。その時理解した。かつて母が見せた苛立ちや、私に対して手を上げた理由を。ぜんぶ分かってしまった。それから泣いて喚いた。

 高校生の時に最初の恋人が出来た。後にも先にもたったひとりの恋人だったと思う。彼は野球部に所属していた。誰も居ない早朝のグラウンドで素振りやランニングをすることが彼の日課だった。雨の日も雪の日も彼は少しも変わることなくひとりで黙々とバットを振り続けていた。私は彼の、その起伏のなさに、強く心を惹かれた。やがて私は彼に思いを伝えた。私たちは恋人同士になった。 
 交際を始めてからしばらく経った頃に私は彼との性交を試みた。彼は私の身体をとても丁寧に触った。私は心地よさを覚えた。指を入れられても性器を挿入されても、世間でいわれているほどのひどい痛みはなかった。けれど彼が何度か動いた後、私は急に怖くなり、彼の身体を思わず突き飛ばした。体の奥底から強い快感が押し寄せてくるような予感を感じたからだ。その快楽がやってきたら、私は自分の心のコントロールを大きく損なうだろうと、咄嗟に思ったのだ。私はそれを恐ろしいと思った。

 物の少ない自分の部屋で、私はひとりで裸になって鏡の前に立ち、酷く痩せこけた自分の身体を眺めた。ただ一度だけ性交を試みたあの日から既に十年が経過しようとしている。あの日以降、私が食べる食事の量はとても少なくなった。決まった時間に目を覚まし、決まった時間に眠り、規則正しい生活を送るようになった。体重は極端に少なくなり、当時と比べて十キロ以上も減ってしまったが、生理の頻度は徐々に少なくなり、最後に来たのは今から半年も前だ。生理が止まったことにより、それに伴う強い怒りや苛立ちも全くなくなった。今の暮らしはとても穏やかだ。 
 にもかかわらず鏡の中に立っている私は涙を流している。もう少しも、悲しくも苦しくもないのに。涙を流している。



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