東京に出てちょうど10年経った


後半部分は少し前に同じようなことを書いたな。
まぁ良いや。

10年前の2009年12月に埼玉の実家を離れて東京でひとり暮らしを始めた。理由は色々ありそのひとつには家族と一緒に暮らすことを負担に感じていたというのがあった。過去に別のところにも書いたけれど僕の両親は自分の子どもたちに対して無償の愛を与えるタイプのひとたちだったと当時は感じていてそこにもしんどさがあった。当時の僕は自分に価値があるとあまり感じていなかったので「自分の価値に対する対価」としての有償の愛を欲していたのだけど家族から与えられていた無償の愛は「僕が価値ある人間であっても無価値な人間であっても同じだけ与えられる」という性質のものであったからその時の状態で欲していたものとは少し違っていた。欲するものが手に入らないなか欲さないものをお腹いっぱい摂取するのはすこし苦しかった。だから少し距離を起きたかった。
 
東京暮らしたこの10年の間には本当に色々なことがあった。はじめの3年半は心身ともに健康ではなかったし色々な意味で「よく生きていたな」という日々だったのだけどこの時期から今に至るまで付き合いのある友人たちのことはずっと特別に思っている。あとの6年半は妻と出会ってからの時間だった。当時住んでいた6畳ほどの部屋には妻が泊まりに来るたびに置いていく荷物が少しずつ増えていき1度あたりの泊まる日数も徐々に増えていって気づいたら野良猫が家猫になるように一緒に暮らしていた。妻がひとりで帰省して半年ぶり具合にひとりの夜を過ごした時には以前に3年半のひとり暮らし期間があったにもかかわらず「寂しいな」「ひとりで寝るのってこんなふうじだったけ」と感じ「このひとはもう自分の生活にすっかり馴染んでいるんだな」と思った。きっとこのひとと結婚するんだろうとも。少し広い家に引越してちょうど5年住んだ。結婚した。ふたりで色々な場所に出かけたし特別な出来事もたくさんあったけれどそれらと同じぐらい、駅までの道を毎日一緒に歩いたことや近所のパン屋さんが美味しかったこと、家の前のカフェに出かけてなんでもない話をして30分ぐらいで帰ってきたこととか日々の暮らしの積み重ねのことを宝物のように思う。ふたりでの時間をこれだけ持てたこと、ふたりでの思い出をこれだけ作れたこと、それらを持って次の場面へ勧めることを幸せだと感じる。

今月2019年12月で僕が東京で暮らし始めてからちょうど10年経った。ちょうどこの節目の月に東京を離れて埼玉に戻ってきた。実家から3駅ほど離れた場所に新しい家を借りた。妻が妊娠して子どもが生まれるからだ。10年前に実家を離れた時にはもう二度と戻ってくるものかと思っていたのだけど今の自分は意外にあっさりと東京から離れることを選んだ。これも別の所に書いたことなのだけれど思春期の頃に「無償の愛」だと思っていた親からの愛情は、どうも実際には無償ではなかったらしい。先日の健診では現時点で赤ちゃんは720グラムほどあるということが分かった。720グラムが内側から蹴ってくるのでもう妻は胎動をハッキリ感じているし動いているのが見た目にも分かる。お腹に手のひらを当ててそこを蹴ってくれた時なんかは幸せの塊をぶつけられたかのようだった。きっと生まれてからはもっとすごいのだろう。

「これからずっと『有償の愛』を与え続けるだけの幸せを、あなたが元気に生まれてくるだけで僕らは貰えるのだ。無償なんかじゃなく、貰ったものの対価として。貰った幸せを少しずつ返すようにあなたを愛するのだ」

今の自分がこんなふうに思いながら過ごしていることを10年前の自分に言ったら信じてくれるだろうか。信じないような気がする。信じられないような変化があった東京での10年間だった。もうそこには僕の家はないけど、電車に乗れば1時間ちょっとだから時々遊びに行くよ。

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