もしもナイフがあったなら


 リニアの駅の自動改札機は仕事帰りのひとや学校帰りのひとや何をしてきたのか分からないひとなどを次々と吐き出す。僕はそのなかから恋人のすがたを見つけた。彼女もすぐに僕のすがたに気づいた。「待たせてしまってごめんね」と彼女は僕に言った。アルバイト先のファミリーレストランが今日はすごく混んでおり退勤時間が遅くなったのだと彼女は説明した。僕は大丈夫だし別に気にしないでと答えた。歩きだして僕らの家に向かった。

 夕飯の材料を買うためにスーパーに立ち寄るとちょうど地球産の白菜に半額のシールが貼られたところだったので僕は迷わずそれをカートに入れた。地球産の野菜は太陽に近い場所で育てられているぶん火星産のものよりも肉厚で甘みがあるが高級なので普段はなかなか買えない。今日はこれを使って寄せ鍋を作ろうと彼女に提案した。彼女は頷いた。白菜のほかにも肉とかネギとか豆腐とかシイタケとか鍋スープとかを買った。

 スーパーをあとにして家への道を歩くあいだ彼女はときおり天井を見上げた。街全体をすっぽりと覆う巨大なドームの透明な天井。その向こう側できらきら光る無数の星々を彼女は見上げていた。このドームの内側は地球の気候を再現しつつ過ごしやすい環境に設定されている。例えばいまの気温は二月の午後九時過ぎだからおおむね十度ぐらいだ。一方でドームの外側はマイナス百度よりも冷たいといわれている。

 家にたどり着くとさっそく寄せ鍋を作った。冷蔵庫で冷やしておいたビールを飲みながら食べた。寄せ鍋は美味しかった。「やっぱり地球の野菜は良いねえ」と彼女も満足げに笑っていた。ラジオのスピーカーからは「【ニトロの団】の構成員とみられる三人の若者が地球から来た外交官を襲撃したものの未遂に終わり現行犯逮捕された」というニュースが流れていた。食事が済むとかわりばんこに僕らはシャワーを浴びた。

 それから僕と彼女は寝室で映画を見た。プロジェクターで天井に投影した映画をベッドに寝転んで見上げた。地球の映画で悪の博士によって改造された強化人間が正義のヒーローと戦うというストーリーだったのだけれど最初の三十分ほどは抑揚の少ないシーンが続き劇中で最初の弾丸が発射された頃にはすでに彼女の寝息が聞こえ始めていた。僕のまぶたもだんだん重たくなりやがて眠りに落ちた。

 現在この火星には大きく分けて二種類のひとが暮らしている。一方は子どもの頃に捨てられるか売られるかして火星につれてこられたひとだ。僕はこちらのタイプで十歳まで地球で暮らしていた。だから地球での記憶もけっこう残っている。もう一方は火星で生まれて火星で育ったひとだ。彼女はこちらのタイプ。彼女の場合は両親がそれぞれ地球の出身だという。

 さきほどラジオのニュースでも取りあげられた【ニトロの団】は、自分たちを捨てていまも地球に住んでいる親、あるいは地球社会全体を敵視する団体だ。「自分たちは不当に地球を追われた。だから地球に帰る権利がある。地球に帰り自分たちの居場所を取り戻す権利がある」というのが基本的な主張だ。過激な側面が多分にある団体だがこのところ急速に規模が拡大している。僕も何度か勧誘されたことがある。毎回断っているけど。

 悪夢を見た。子どもの頃の夢。地球にいた頃の夢だ。僕は電気のついていない暗く荒れ放題の部屋のなかで男と出かけた母を待っている。暑く暑く暑い。ひどく喉が渇き水を飲みたいがずいぶん前から水道が止まっている。頭が痛くて身体に力がはいらなくて立ち上がることができない。最後にものを食べたのがいつだか思い出せない。ホコリとカビと腐ったものの匂いがする深い深い巨大な暗闇が音も立てずに大きな口を開けて僕が力尽きるのをじっと待っている。

 そういう夢を見てハッと飛び起きた。呼吸が浅い。心臓の鼓動が全力疾走した後みたいに速く音が聞こえるほどだ。汗をかいておりパジャマの背中がじっとり湿っていた。僕は確かめる。自分がもう大人であり部屋には空調が効いていて隣にはすやすやと彼女が眠っているから自分は孤独ではないし飢えたり乾いたりしていないということを確かめながら呼吸を整える。

 天井にはまだ映画が投影されており黒幕である悪の博士がヒーローに追い詰められながら改造人間を生み出した理由について語るシーンが流れていた。博士には警官の弟がいた。弟は正義感の強い人物だったがある権力者の汚職の証拠を掴んだために無実の罪を着せられて処刑されてしまう。それを知った博士は弟の遺体を改造人間として蘇らせ権力者への復讐を試みたのであった。こういうシーンは苦手だなと僕は考える。呼吸はすでに整っており汗も引いてきた。

 こういうシーン。映画とかコミックとか小説とかにおいて悪役が悪の道に走った理由を明らかにしていくシーン。それが苦手だなと僕は考える。なぜならそういうシーンを見ると「お前もそうして良い」と誰かに耳元で言われているような気持ちになるからだ。「あの母親のことをもっと憎んでもいい」「お前も復讐に走る権利がある」と言われているような気持ちになるからだ。

 そういう生き方も確かにあるかもしれない。例えば【ニトロの団】のように地球社会を敵視する団体に参加して母への復讐を目指す生き方が選択肢として眼前に現れたことは一度や二度ではない。けれども僕はそれを選びたくないのだ。だって僕は恋人と一緒に住み、昼間は仕事をして、一食一食をなるべく美味しく食べて、週に何本か映画を見て過ごす、この生活を気に入っているのだ。

 翌朝。目を覚ますと恋人のすがたはなかった。テーブルのうえにはボールペンで書かれた手紙があり「ニトロの団に参加する。アルバイト先の先輩に誘われてずっと悩んでいた。自分は火星の出身だけど地球のやつらを許せないと思う。自分も地球で暮らしたいと思う。あなたがそういうのを好きではないと知っているから黙ってここを出ていこうと思う。突然ごめんなさい。今までありがとう」という旨が書かれていた。

 深く息を吐いた。それから台所に行き食パンをナイフで薄くスライスした。ハムとチーズとレタスを挟んで食べた。昼食用のお弁当も作った。作り置いて冷凍しておいた唐揚げを入れたのでお昼休みが楽しみだなと思った。顔を洗ってヒゲを剃りスキンケアをして洋服も着替えた。コートを羽織ってふだんどおりに家を出発した。

あとがき

もしもナイフがあったとしても、あなたはナイフに人生を決めさせることはないのでしょう。それを振るうにしても、振るわないにしても、きっと自分で決めることでしょう。

2025/07/06/辺川銀

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