オッサンとワンワン


 路地裏にある室外機の影で身体を丸めていると、嗅ぎ覚えのある匂いがひとつ近付いてきたので、おれは立ち上がり小さく尻尾を振った。やって来たのは頭の禿げかかった小太りの男だ。見た目は冴えないがおれはこの男に対して、ちょっぴり親しみを感じている。近くのコンビニエンスストアに勤めているのだというこの男は、仕事を終えるといつもこうしてこの場所を訪れ、野良いぬのおれに食べ物をくれるからだ。
 だけど今日のこの男はいつもと様子が違った。あまり元気がないし目の周りには紫色の大きなアザがあった。それから仕事帰りに寄ったわけではないということもわかった。男の職場であるコンビニエンスストアの匂いがしなかったからだ。聞くところによると男は、グレた息子とその悪友たちに殴られ、蹴られ、自分の家から追い出されてしまったのだという。そりゃ大変だなとおれは同情して、ワン、と一回鳴いた。

 おれは野良いぬだ。だけど以前はひとに飼われていた。おれのご主人はおれがまだ目も開かなかった頃からおれを育ててくれた。ご主人は奥さんも子どもも持たないひとだったから、おれのことをまるで、人間の家族のように大事にしてくれた。散歩にだって毎日連れ出してくれた。田園を横切るあぜ道を歩いて行き、線路を通る電車を眺めて通るのがお決まりのコースだった。散歩から帰った後、ご主人の膝の上で一緒にテレビを見ることが何より楽しかった。ご主人のおかげでおれは幸せだった。   
 けれどある日。ご主人は家に帰ってこなくなった。救急車とかいう、弱いいぬの遠吠えみたいなサイレンを鳴らして走る車に乗せられ、出かけて行ってからというもの、ご主人は家に戻って来なくなった。
「少し留守にする。だけど必ず帰るから待っていてくれよ」
 最後に出かける時。ご主人はおれに優しくそう言った。そんなことを言われるのははじめてだったので、きっとあれは特別な外出なのだろうとすぐに理解した。だからおれはご主人の帰りをずっと家で待った。一ヶ月経っても。二ヶ月が過ぎても。ご主人の帰りをじっと待ち続けた。結局ご主人は帰ってこなかったが、嘘を吐かれたとは今でも思っていない。約束を破ったのは、むしろおれの方だ。

 今。おれとご主人が暮らしていたあの町では、コバルトブルーの雨が、ずっと止むことなく、しとしと降り続いている。コバルトブルーの雨には強力な毒があって、それに触れるとどんな生き物でもたちまち死んでしまう。どうしてそんな物騒が雨が降るようになったのかというと、あの町にあった兵器の工場で馬鹿な人間が事故を起こしたからだ。あの事件が起きた日、おれはやっぱり家に居て、ご主人の帰りを待ち続けていたのだけど、東の方から突然臭ってきた、毒の嫌な匂いに命の危険を感じて、一目散に逃げてきてしまったのだ。 
「必ず帰るから待っていてくれよ」
 必死に走って逃げるあいだ、ご主人が言った最後のひとことが、おれの脳裏を何度か過ぎっていた。それでもおれは死んでしまうことが怖くて、ご主人の言いつけを破って、町から逃げ出した。そして野良いぬになった。
 
 路地裏にある室外機の横で、頭の禿げかかった小太りの男は、おれの背中をしばらく撫でていた。けれど急に撫でる手を止めると、息子に殴られて腫れ上がった目をすっと細めてから、
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
 と静かに呟いた。今帰ってもまた息子たちに殴られるんじゃないのか? とおれは思ったけど、男はそんなおれの疑問を察したかのように、
「どんなに酷い仕打ちを受けても息子は私の家族で、あそこは私の家だ。だから帰るんだよ」
 と、微笑みながら言った。のそりと立ち上がって、さっき来た道をふらふらとした足取りで歩いて帰って行った。その後姿を眺めながら、馬鹿な男だなぁ、とおれは思ったけど、でも、明日もまた、いつものようにここに来て欲しいなとも思って、ワン、と一回鳴いた。
 

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