仕事を終えたあとで、おじいさんが入院している病院に今日も足を運んだ。白を基調にした病室の中は窓から差し込むやわらかい西陽で満ち、おじいさんはベッドの上に座って本を読んでいた。おじいさんは私が入室したことに気付くと一瞬目配せをしたけど、すぐに視線をページの上に戻した。読まれているのは英語で書かれた科学の本なので、何が書いてるのかはすこしも分からない。おじいさんの首とか、ページを捲る指とか手の甲などは、とても細くて筋張っており、また痩せちゃったなぁとわたしは寂しく思った。
わたしが幼い頃、おじいさんは今とずいぶん違っていた。絵本にでてくるサンタクロースのようにたっぷりと太っていて、その頬や腕ののゆるやかな曲線は、いつもわたしを穏やかな気持にした。当時のわたしにとって、おじいさんの勤め先である大学の研究施設に連れて行ってもらうことは大きな楽しみだった。そこには綺麗な色の鳥とか、見たこともない形をした虫など、さまざまな生き物が飼育されており、おじいさんはそれらの生態について、わたしにも分かる言葉で優しく教えてくれた。
そんなおじいさんが変わってしまったのは、わたしがちょうど思春期に差し掛かった頃だ。その頃もおじいさんは、生き物たちの研究を続けていた。けれど生き物たちを見詰めるその視線にはもう、かつてのような優しさは見受けられず「すべての生き物は、どれも偶然、今の形に進化しただけだ」「意味を持って生まれてきた生き物なんて、ひとつもいないんだ」「私たちが生きることにも意味なんかはないのだ」なんて科白を口にするようになった。その変化を目の当たりにしたわたしは、徐々におじいさんのことを怖いと思い始めた。一緒に研究施設に行きたいとも考えなくなった。
おじいさんは、ますます研究に没頭するようになった。研究室に閉じこもって、何日も家に帰らないような生活を何年間も続けた。「生き物には意味がない」「生きる意味などない」たまに顔を合わせれば口にするのはそんな言葉ばかりだった。ふくよかだったその身体は、目にする度に痩せていくのが分かるほどだった。そしておじいさんは病気になってしまった。
ねえ、おじいさん。ベッド上に座り科学の本に書かれた文字を目で追いかけるおじいさんに、わたしは声を掛ける。ちかごろ暑いでしょう。病院の側の田んぼではカエルがたくさん鳴くのよ。けれどおじいさんは返事を寄越しはしない。骨ばった指で、ページをめくっていく。
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この作品は、8/31~9/2にかけて行われた、マリネロさんの個展のために書き下ろしました。