蝶々結びのおぼえかた

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――ええと、すみません。

――その、靴ひも。

――うん、そうです。靴ひもが、ほどけちゃってます。

――あの、もしよかったら、わたし結びましょうか。
 
――それじゃあ結んじゃいますね。

――あ、いや、わたしには子どもはいないです。職場の先輩がこのまえ、お腹が大きくなってくると足元が見えないから靴ひもがほどけても気づきにくいとか、気づいたところで屈むのも大変だから結び直すのも一苦労だとか、話してくれたので。……はい、できました。

――そうですね。とくにこんな天気だと、足元が濡れて滑りやすいですもんね。

――確かに。屋根のあるバス停でまだよかったです。これで屋根がなかったらバスは諦めてタクシーを呼ばなきゃいけない。

――このあたりのバスって昔からこうなんですよ。雨が降っていたり雪が降っていたりすると、十分や二十分は平気で遅れます。高校生の頃はよくそれで遅刻をしていました。

――ええと、わたし自身はいまは別のところに住んでいるんですが、そこの公園の奥に見えるマンションが実家なんです。今日は親に会ってきて、これから帰るところです。

――わたしの親ですか? うーん。いまは歳を取ってだいぶ落ち着いてきたけど、わたしが子どもの頃はなんというか、精神的に不安定なところがありました。とくに母ですね。いきなり泣きだしたりとか怒り出したりとか、そういう場面は少なくなかったです。でも母なりの事情があって仕方がありませんでした。両親はわたしが生まれるよりも前に、わたしにとって兄にあたる子どもを亡くしているんです。わたしは親になったことはないけど、子どもを亡くす悲しみというのが十年やそこらで癒えたりしないってことぐらいは……。ごめんなさい妊婦さんの前でする話ではないですよね。

――そうですか? それじゃあ続けます。

――加えて両親はわたしを産んだ時点でまあまあ高齢でした。当時そのマンションにはわたしと同じ学年の子も多く住んでいたんですが、彼らの親たちと比べてもわたしの両親はひとまわり以上、歳を取っていました。母がそのことに引け目を感じているのは子どものわたしにもはっきり見て取れました。朝の廊下でよその家族とすれ違うときとか、自治体の夏祭りで顔を合わせるときなんかは、決まって居心地が悪そうでしたから。

――わたしは年の近いともだちと遊ぶときにでも努めて慎重である必要がありました。だってもしわたしが他の子に迷惑をかけたりトラブルを起こしたりしてしまうと母が相手とその親に謝らなきゃいけないからです。自分よりもずっと若い親に謝ること。子どもを亡くしたことのない親に謝ること。それらはきっと母にとってものすごい苦痛を伴うことであり避けなければいけないとわたしは思っていたし、実際に「ご迷惑になるからやめなさい」って何かとつけて母が言っていたこともよく覚えています。

――でも、情緒が不安定な母の顔色をうかがい、迷惑をかけたりトラブルを起こしたりしないよう友だちの顔色もうかがい、わたしはいつもそうやって誰かの顔色を伺っていました。そしてわたしの知る限り人間は自分の顔色を伺ってくる相手を下に見るものです。全員がそうではないけど、そういうひとがいない場所というのはほとんどありませんし子どもの場合はいっそう顕著です。小学六年生になる頃には教室で貴族みたいに振る舞う子たちの子分みたいな立場にありました。帰宅してから見るテレビや聴く音楽や遊ぶゲームなんかも彼女たちの話題にそぐうものを選ぶ必要があった。そうでなければ機嫌を損ねて迷惑やトラブルが発生し母の情緒もおかしくなるからです。楽しくなかったですね。

――そんな当時のわたしを支えてくれたのは同じマンションに住んでいて小学校でも同じクラスだったひとりの男の子です。彼は変わり者でした。休み時間にいきなり机の上に立って歌いだしたり下校中にそのへんに生えている花を食べてみたりするような子でした。本人は周囲を笑わせようとしてやっていたみたいなんですけど実際には引かれていることのほうが多かった気がします。

――彼とは保育園から一緒だったんだけど元々は口数も少なかったし目立つタイプではありませんでした。あまり喋ったこともなかった。彼の奇行が目立つようになったのは六年生になってからのことで、あとから聞いたんだけど、ちょうどその前後に彼の両親が離婚しいていたそうです。

――何かのきっかけで彼と喋ったとき、あの頃わたしが好きだったアニメの原作の漫画を彼が全巻持っていると話してくれました。そしてそれを貸してくれるとも。でも学校に持っていくことはできないから週に一度わたしが彼の家に行って毎回二冊ずつ貸してもらいました。わたしが玄関のチャイムを鳴らしてドアを開けるとそのたびに彼が一発ギャグを披露してくれるんです。漫画自体はあまり重要ではなく彼とのやりとりが楽しくて、それを続けました。学校で会話をする機会も少し増えました。

――でも母は、わたしと彼とのそうした関わりが面白くなかったようです。不安だったのかもしれません。あるとき彼に借りた漫画を自宅で読んでいると母は言ったんです。もう彼から漫画を借りるのはやめなさいって。彼も本音では迷惑しているはずだって。

――わたしはショックでした。彼とのやりとりのなかでそんなふうに考えたことはなかったから。だけど母がそういうのであればきっとそうなのだろうとも思いました。振り返ってみると確かにわたしは彼と接するときには母や他の子と接するときと違って顔色をあまり伺ってこなかった。伺うべき顔色をうかがわず彼に迷惑をかけてしまった。自分はなんて軽率だったんだろう!

――借りた漫画を持って彼の家に行かなければいけませんでした。漫画を返して、もうこういうやり取りはやめにしよう、いままで迷惑をかけてごめんなさい、嫌な思いをさせてごめんなさい、そう伝えなければいけませんでした。本当は嫌だけどそうしなければいけないとあの日は思っていました。

――それを伝えたあとのことを想像しながらわたしは夕方のマンションの通路を歩いて彼の家に向かいます。彼はきっとわたしの言葉を聞いたあと、ほっとした表情を浮かべるだろうとわたしは考えました。これでようやく厄介なクラスメートとのやり取りも終わりになるのだと安心するだろうとわたしは考えました。悲しくて仕方なかったけどそういうふうになるのだと覚悟を決めながらわたしは彼の家の玄関のチャイムを押す。

――いつもどおりの一発ギャグを披露しながらドアを開ける彼。その日は確かゴリラのモノマネか何かをしていたと思います。あらかじめ決めていたとおりの言葉をわたしは彼に伝える。それでこの関係は終わりになり彼は安心できるはずだと思いながら伝える。

――でも違ったんです。

――そのとき彼が浮かべた表情は、ほっとした表情なんかではなかった。表情がぜんぶなくなって、そのまま固まって動かなくなってしまった。彼があの瞬間何を考えていたのかは分からないけど少なくとも事前の想像とは違ったことが起きているということだけが確かでした。次の瞬間わたしは手に持っていた漫画だけ彼に押しつけてその場から逃げました。走って逃げました。

――それで終わりです。彼とはそれからちゃんと顔を合わせていません。漫画を借りに家に行くのはもちろん終わりになったし教室で話すこともほとんどなくなりました。中学校では一度も同じクラスにならなかったし高校に進学して以降は姿も見ていない。
 
――後悔ですか? どうだろう。後悔していた時期もあるけど仕方がなかったという気持ちのほうが今は強いですね。親が不安になりやすかったのは仕方がなかったし、私が親の言うことを真に受けて彼との関係を終わりにしてしまったのも仕方がなかったと思う。受け流したり反発したりできるだけの材料を当時のわたしは持っていなかった。

――そうですね。今はあの頃と違って、自分がどういうことに後味の悪さを感じるのかを分かっていますから。さっきあなたの靴ひもがほどけているのを見つけたときだって、いきなり声をかけて迷惑に思われないかなっていう心配は、確かにありました。
 
――こちらこそ。長い話を聞いてくださってありがとうございます。

――あ、やっとバスが来ますね。

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あとがき

「あの時ああしていれば」は、きっと次の岐路での道標になってくれるでしょう。

2026/07/15/辺川銀

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