青になるまで

 ――わたしの内なる世界には四角く窓のない部屋があってそこではピエロがひとりで暮らしている。部屋の壁のうち一面はスクリーンになっており現実のわたしが見ている景色がそのまま映っている。スクリーンに向かって設置されたソファにピエロは深く腰掛け、わたしの暮らしざまをじっと眺めている。ソファの前には正方形のテーブルがあり、そのうえには丸い金魚鉢がひとつ置かれている。金魚鉢の中を泳ぐものはなく、液体だけがそれを満たしている。 

 現実のわたしは仕事おわりに恋人の家を訪ねてケーキを食べている。誕生日でも記念日でもないけどイチゴがたっぷりのったケーキを用意してもらいふたりで食べている。「嫌になるほどケーキを食べたい!」とわたしがふと思いたって彼に伝えたからだ。それはわがままだった。値札の数字もまだ読めない幼児が玩具売り場で目についたものを指さし「あれがほしい」と気分のままに言うようなわがまま。叶わないことのほうが多いし叶わなくても別に困らない、だけど叶うと嬉しい。そういう類のわがまま。そして恋人は今回それを叶えてくれた。――その様子をスクリーン越しに眺めていた内なる世界のピエロは右手の指の爪の先から、晴れた空みたいに青い色のインクを、金魚鉢のなかに一滴だけ垂らした。

 翌朝。自分の家でわたしは目を覚ました。恋人の家に昨日は泊まらなかった。時間はいつもどおりの午前五時半で、家を出発する時間までは二時間以上ある。わたしは上半身を起こして大きく伸びをしてから、ベッドを降り、キッチンに移動して朝ご飯の支度をした。ホットサンドを作り、ウィンナーを茹でた。サラダには輪切りにしたゆでたまごも乗せた。自分ひとりのために作った朝ご飯を、ゆっくりと、急ぐことなく食べた。この家に住んでいるのは私ひとりなので、早く食べろと怒鳴られたりはしないし、座っている椅子を蹴飛ばされたりもしない。すべて食べ終えたら「ごちそうさま」を言い、洗い物をしてから、出かける準備を始める。――その様子を眺めていたピエロは、やはり右手の爪の先から、青いインクを金魚鉢のなかに一滴だけ垂らした。

 わたしの職場は中学校の保健室なのだが最近ひとつ心配事がある。登校自体はできるけど教室で授業を受けることはできず保健室で過ごす、いわゆる「保健室登校」の女生徒がひとりいるのだが、彼女がここ一ヶ月ほど姿を見せないのだ。一体どうしたのか。担任に訊いても、連絡は取れているが詳しい事情までは把握しいてないという。「別にいじめられてるとか、勉強が嫌いとかじゃないんだけど、教室にいるとだんだん上手に息ができなくなって、座っていられなくなるんだ。でも昼間はたいていママがお酒を飲んでるから家にもいたくない。保健室にしかいられる場所がないんだ」そんなふうに話していた彼女に居場所を提供できていたことを、わたしはひそかに嬉しく思っていたのだけど、実際は何の助けにもなっていなかったんじゃないだろうか。――俯くわたしの姿を眺めていたピエロは、今度は左手の指の爪の先から、鮮血みたいに真っ赤なインクを金魚鉢のなかに一滴だけ垂らした。

 放課後になり部活動の声が聞こえ始めた頃。トン、トンと遠慮がちなノックの音とともに保健室のドアが空いた。入ってきたのは件の女生徒だった。一ヶ月前に会ったときよりずいぶん痩せているが、目には晴れやかな光を湛えていた。「先生おひさしぶり。心配をかけちゃってごめんなさい」そういって彼女は小さく頭を下げる。「実は来週から、ママのもとを離れて、パパのところで暮らすことにしたんだ。この一ヶ月はそのために、パパのもとを訪ねたりママと喧嘩をしたりお役所や裁判所で手続きしたりして、学校に来れなかった。引越しするし転校もするから今日は荷物だけ取りに来たんだけど、先生にはすごくお世話になったから、最後に挨拶をしにきたんだ」それから少しのあいだ、この保健室で過ごした時間の思い出を彼女は語ってくれた。最後に軽く会釈をして、「じゃあ、またいつかね」と言って保健室を出ていく。――その様子を見ていたピエロは、右手の爪の先から青いインクを、金魚鉢のなかに一滴だけ垂らした。

 子どもの頃。朝ご飯は急いで食べないといけなかった。時間がかかると母がだんだん苛々してきてくるから食欲がなくても味がしなくてもいそいでたべないといけなかった。少しでも遅くなれば母は「早く食べろよ!」とテーブルを叩いたりわたしの前からお皿を取り上げてまだ食べられるものをゴミ箱に放り込み「あんたのせいでゴミになっちゃったじゃん!」と怒鳴ったりするのだ。そういうことがあるたびにピエロは左手の爪の先から鮮血のような赤いインクを出して金魚鉢に垂らした。わたしが入浴しているときに黙って浴室に入ってきた母が浴槽の栓を抜いて出ていったのは何だったんだろうあのときもピエロは赤いインクを金魚鉢に垂らした。母はその日の機嫌によって言動がまるで違い昨日笑っていた話題でも翌日に持ち出したらブチ切れるなんてことは珍しくなかったからいつしかピエロはわたしが母の顔を見るたびに赤いインクを垂らすようになった。「あんたのせいで!」「あんたのせいで!」と叫びながらわたしの背中を蹴り続けたこともあった一体なにがわたしのせいなのかは分からなかったのだけど母がそう言っていたのだからきっとわたしが悪いことをしてしまったのだろう母のつま先が背中に突き刺さるたびにピエロは赤いインクを垂らした。首を絞める時にも母は「あんたが悪いあんたが悪いあんたが悪いんだ」と言っておりまるで念仏を唱えているみたいだった。脳に向かう酸素を止められて意識がうすれていくなかでわたしは、そうかわたしが悪いんだなあと思うしかなくて、ピエロは赤インクを垂らした。来る日も来る日も鮮血みたいな赤インクを垂らした。

 ――わたしの内なる世界にはピエロがひとりで暮らしている小さな部屋がありわたしは時々そこをふらりと訪ねる。わたしが入ってくるとスクリーンは真っ白になり何も映らなくなるがそれでもピエロは私の方を振り返ったり声をかけたりすることはなくスクリーンを黙って眺め続ける。わたしはピエロの前に置かれている金魚鉢を両手で持ち上げるとその中身に目をやる。丸いガラスの球体のなかには何も泳いでおらず液体だけがそれを満たしている。液体はピエロが過去から今に至るまでに垂らしてきたインクが混じり合ったものだ。その液体は現時点で赤にかなり近い紫色をしている。「これは赤ですか? それとも紫ですか?」と十人に聞いたら「紫」と答えてくれるひとは二人ぐらいだろう。それでも子どもの頃に比べればずいぶん落ち着いた色になってきた。子どもの頃はそれこそ鮮血と同じ色だった。今は青いインクを垂らす場面も徐々に増えてきて少しずつだが紫に近づいている気がする。「それでもまだ、だいぶ赤いね」とわたしは呟いた。「青くなる日もいつか来るのかな」もうひとつ呟く。ピエロは返事をしない。

 翌朝。わたしはまたいつもどおりの五時半に目を覚まして食事の支度を始めた。レタスをちぎり、トマトをスライスして、それらをハムと一緒にパンに挟んでサンドイッチを作った。目玉焼きやヨーグルトも食べた。時間を気にせず食べたいものを作り、時間を気にせず食べた。食べ終えてから「ごちそうさま」を言い、スマートフォンを手に取って、恋人からのメッセージに返信した。天気予報もついでに確認する。今日はカラッとした晴天が終日続くという。洗い物を済ませてから、出かける準備をする。――その様子をスクリーン越しに眺めていた内なる世界のピエロは右手の指の爪の先から、晴れた空みたいに青い色のインクを、金魚鉢のなかに一滴だけ垂らした。

あとがき

今回、ご依頼者さんのパートナーの方から、あとがきのコメントを寄せていただきました。

青いインクを一滴

誰かにとっての当たり前が、別の誰かにとっても当たり前であるとは限らない。

好きなものを食べること。自分のペースで朝を過ごすこと。誰かに願いを伝え、それを受け止めてもらうこと。
そんな何げない日常のワンシーンが、誰かにとっては、長い時間をかけてようやくたどり着いた幸福なのかもしれない。

過去に起きたことは変えられない。積み重なった記憶を、なかったことにもできない。
でも、これからの人生のすべてが、過去によって決められてしまうわけではない。

誰もが生きる権利を持っていても、自分の意思で生きられるとは限らず、主人公がささやかな日常の中に見いだした生きる目的こそが、過去の苦しみを抱えながらも、自分の人生を歩み始める力になったのではないだろうか。

誰かと一緒にケーキを食べること。話に耳を傾けること。いつもどおりに連絡をすること。
自分にとっては、いつか忘れてしまうような出来事でも、相手の心には、小さな安らぎとして残ることがある。

誰かの苦しみを理解し尽くすことはできないし、その人の人生を代わりに生きることもできない。
愛情さえあれば過去の傷が癒えるとも、簡単には言えない。

それでも、すべてを理解できないまま、その人と穏やかな時間を重ねていくことはできる。
そうした時間のひとつひとつが、青いインクの一滴になるのかもしれない。

今日もまた、どこかで青いインクが一滴、静かに落とされますように。
そして私も、誰かの金魚鉢に青いインクをもたらす存在でありたい。

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