
ヒカリはヒトではない。今でこそヒトのように暮らしているけれど本当はヒトではない。十一月のある日の放課後にヒカリはクラスメートの吉野くんを伴ってイオンモールを訪ねた。ヒカリは一緒に暮らしている多摩川教授からおつかいを頼まれている。今朝、家を出るときに教授から三千円を渡され、モールに入っている紅茶専門店で生姜のお茶を買ってくるよう頼まれているのだ。教授は冷え性だから寒い季節には身体を温めるために生姜のお茶を飲むのだ。「あまったお金でお友だちとスターバックスにでも寄っていらっしゃい」とも言われている。一方で吉野くんは、好きな漫画の新刊が今日発売されたのでそれを買うのだという。ふたりはまず書店に行って吉野くんの用事を済ませ、それから紅茶専門店に向かった。
ヒカリはヒトではない。ヒカリは本当はランプの精である。今から十年前に砂漠の国の遺跡で、多摩川教授によって発見されたランプの精である。調査隊の隊長を務めていた多摩川教授が、遺跡の最奥に供えられていた錆びたランプに触れると、次の瞬間ランプから煙があふれだして、やがて煙はヒトの形になった。それがヒカリだという。その後、ヒカリは多摩川教授が帰国する際に一緒についてきて、以降十年間、一緒に暮らしている。
ヒカリはランプの精だから魔法のちからがあった。魔法のちからは万能ではなかったけど、それでも普通のヒトにはとてもできないような小さな奇跡を起こすことができた。たとえば「研究のため、砂漠の国の許可を得ずにヒカリを連れ帰りたい」という多摩川教授の野心的な願い事を叶えるために周囲のヒトの記憶をちょっぴり書き換えて「ヒカリは多摩川教授の孫娘である」と思い込ませるぐらいのことは朝飯前だった。
また、これは多摩川教授の研究によって分かったことだがヒカリの身体は魔法のちからを宿しているだけでなくいくつかの呪いもかかっている。超常のちからを持つランプの精がヒトに反旗を翻す事態を防ぐための安全装置としてかけられた呪いだ。たとえば「奉仕の呪い」。これはヒカリ自身の願いを叶えるために魔法を使うことを禁止するものである。この呪いによりヒカリの魔法は誰かの願いを叶えるためにしか使うことができない。更に恐ろしいのが「砂の呪い」である。もしもヒカリが一定期間、誰の願いも叶えることなく過ごせば、その身体は徐々に干からびていき、最後には砂になって消えてしまうのだという。
そんなわけでヒカリは多摩川教授といっしょに暮らしながら近所のひとの小さな願いごとを魔法のちからで叶える日々を過ごした。魔法を込めて歌をうたえば泣き止まない赤ちゃんを笑わせることができた。迷い人や迷い猫を見つけ出すことも魔法を使えばお茶の子さいさいだった。結婚式を挙げる男女のためにチャペルの周囲の雨雲だけを消したこともある。魔法を使って願いを叶えるといつも「ありがとう」といわれた。それがヒカリはとても嬉しかったし、そのために自分は存在しているのだと思うことができた。
だが多摩川教授と暮らし始めてから一年ほどが過ぎた頃ヒカリに異変が起きた。ある日とつぜん魔法が使えなくなってしまったのだ。誰かに願われてもひとの記憶や感情を書き換えたり物体を浮かせたり天候を操作したり時間を止めたりすることができなくなってしまった。ひとの願いを叶えることが存在意義なのに誰の願いも叶えることができなくなってしまった! 失望は大きくヒカリはベッドから起きあがることもできなくなってしまった。食事をとることも眠ることもできなくなってしまった。数日後にやってくるだろう「砂の呪い」による死をぼんやりと思うことしかできなくなってしまった。
ヒカリが魔法を使えなくなり寝たきりになってから一週間が過ぎた。ヒカリはまだ消えていなかった。一ヶ月経っても消えることはなかった。魔法でひとの願いを叶えられなくなり一ヶ月が経っても「砂の呪い」は発動せずヒカリは消えなかった。二ヶ月が過ぎるとちょっぴり元気が戻ってきて多摩川教授が茹でてくれる柔らかいうどんなら食べられるようになった。三ヶ月が経つと近所をひとりで散歩できるぐらいには体力が戻ってきた。だけど魔法が再び使えるようになることはなかった。
「おそらくだが」と多摩川教授はヒカリに説明した。「魔法と呪いは表裏一体だった。魔法がなくなった理由はわからないが、魔法がなくなったことで呪いも一緒に消えてしまったのだろう。つまり今のきみは、普通のヒトとほとんど変わらないのだ」
それからもヒカリは多摩川教授といっしょに暮らしている。ヒカリが学校に通いはじめたり、教授が定年を迎えて退職したり、色々なことがあって、いまに至っている。ふたりが祖父と孫の関係であることを疑うひとはいない。
十一月のある日の放課後にヒカリはクラスメートの吉野くんを伴ってイオンモールを巡った。紅茶専門店では生姜のお茶が売り切れておりヒカリはスマートフォンのメッセージで多摩川教授にその旨を伝えた。
――大丈夫だよ。
とすぐに教授からの返信が届いた。
――スタバは寄っていい?
ヒカリが訪ねると、それにもすぐに、
――いいよ。
と返事が来た。
スターバックスでは、ヒカリは期間限定のフラペチーノを注文し吉野くんはホットコーヒーを選んだ。
「わたしお小遣いもらってるから吉野くんのも払うよ」
とヒカリは言ったけれど、
「いいよ自分で出す」
と吉野くんは断る。飲み物を受け取りテーブル席に向かい合わせで座ると吉野くんは買ったばかりの漫画本のページを捲り始めた。ヒカリは鞄のなかから学校指定の単語帳を取りだし明日おこなわれる小テストの範囲をちゃんと暗記できていることを何度か確認した。
やがて吉野くんは漫画を読み終える。
「それ面白いの?」
とヒカリが訊くと吉野くんは頷き、
「読み終わったから貸すよ。明日学校で返して」
と、閉じたばかりの漫画本をヒカリに手渡した。表紙には「十四巻」と書かれており、ここから読んでも面白いものだろうか? とヒカリは思ったけど、
「わかった」
と受け取って、鞄のなかにしまった。それからイオンモールをあとにし、
「また明日ね」
と言い合ってから、それぞれ帰路についた。
ヒカリが家に帰り着くと多摩川教授がキッチンでカレーを作っていた。市販のカレールーではなくスパイスから作るちょっと手の込んだカレーだ。定年退職してからというもの教授がこうした料理を作る機会が増え、それをヒカリもけっこう気に入っている。カレーを食べながら、
「さいきん学校はどうかな」
と教授はヒカリに訊く。
「吉野くんって男の子がいて」
ヒカリは言いかけて、いちどためらった。カレーを食べる手を止め、そして言い直す。
「吉野くんって男の子がいて、もしかしたらわたしのこと好きなのかもって思う」
「おお、そうかい」
「でも違うかもしれない。魔法があったらすぐに分かるんだけどな。あのさあ教授わたしの魔法ってさあ結局なんだったのかな」
「さあ、どうだろうねえ」
教授は煙に巻いた。
「もしかしたら魔法も呪いもぼくらの思い込みで、きみは最初からぼくの孫だったんじゃないかな」
でも今日のカレーって砂漠の国から取り寄せたスパイス使ったでしょ? とヒカリは考えて、だけれど言わずにおいた。カレーを口に運び、美味しいなあ、と思う。
その夜。多摩川教授が目を覚ましたのは午前の二時だった。年々睡眠が浅くなっているような気がする。のどが渇いたので水を飲むためにベッドを降りて寝室を出るとリビングには明かりが灯っていた。行くと、そこにはソファのうえに横たわるヒカリの姿があり、手元には友だちから借りてきたのだという漫画本があった。きっと読みながら眠ってしまったのだろう。起こして自室に行くよう促そうかとも思ったけど、傍に畳んであった毛布を身体にかけて、そのままにしておく。ヒカリの寝息は規則正しく、その様子を見て教授は安心する。そして明日も、消えることなくヒカリが生きられるよう願った。もっとも、自分ひとりが願わなくたって、ヒカリはもう、砂になって消えたりなんかしないだろうとも思った。
あとがき
2019年にも書かせていただいた方に、7年ぶりにご依頼いただきました。
自分が無力に思えるときがあっても、目を覚まして、呼吸をして、たまにちょっとでも笑ってみるだけで、きっと誰かの願いを叶えているものです。
2026/11/7/辺川銀


