高層ビルの最上階にあるレストランで食事をした。窓に面するテーブルからは宝石箱みたいな都会の夜景を見渡すことが出来た。私の向かいには若い実業家の男が座っている。私がこの男と会うのはこれが二回目だ。最初の出会いは会社のパーティだった。そして今回は男の方から私のことを誘った。男は幾つかの会社を持っており経済的にもとても余裕がある。しかも背が高くて彫刻のように整った顔をしている。ふと目が合い、私は緊張して、思わず窓のほうを見遣った。夜景を眺めるふりをしながら窓硝子に映る自分の顔を見つめた。私の顔。鼻が高く目が大きく瞼もぱっちりと二重だ。大丈夫。大丈夫だ。私は自分に何度も言い聞かせた。私は美しい。だから大丈夫だ。そして視線を男の方へと戻した。
手術の当日。待合室で思い出したのは恋人の声とか身体の温度だった。もうずいぶん前に別れてしまったので、厳密には、彼のことを恋人と呼ぶのは正確ではないのだけど、だけど彼は、二十や三十では足りないほどの男たちと身体を重ねた私が、きちんと恋人という形を取って交際した唯一の相手だから、私にとって恋人という言葉は、今でもただ、彼のことを示すためだけの固有名詞のようになっている。
恋人はなかなか酷い男だった。いつも忙しそうにしていて、そのくせ常にお金に困っていた。他のどの男よりも適切な手付きで私の背中を撫で、どの男よりも適切な声で私の名前を呼んだが、気難しそうな表情をしている時間が長く、あまり笑わなかった。
中学生や高校生の頃。私の容姿はいつもクラスで五番目か六番目ぐらい可愛いという評価をされてきた。ひとつのクラスはだいたい三十人で、女子の人数はそのうち半数の十五人前後。その中に居て五番目か六番目ぐらいだと評され続けてきた、中途半端な私の姿形。可愛いとか綺麗とか言われることはあったが、私以上に優れた容姿を持っている子はどこに行っても必ず数人居た。一重瞼や高くない鼻などのコンプレックスを指摘されることとか、ブスだと罵られることも珍しくはなかった。
私の、自分の容姿への自信は、他者からの声によっていとも簡単に二転三転した。可愛いとだけ言われ続ければあたかも自分が絶世の美女であるかのように錯覚することが出来た。一方で一度でもブスだと言われれば自分が酷く醜悪なもののような気がして死にたいとさえ思った。
いつしか私は男とばかり遊ぶようになった。私が遊んだ男たちは誰もが私の容姿を褒めてくれた。私は私の姿形を好んでくれる男であれば誰かれ構わず遊んだ。可愛い。綺麗。美しい。肌のきめが細やか。髪型が似合っている。眉毛の形が良い。骨の形が綺麗。そういう言葉を異性から向けられると凄く安心した。自分の容姿に自信を持って、容姿を貶される恐怖から逃れることが出来た。誰々より可愛い。誰々よりも綺麗。そういうふうに言ってもらうためなら何の躊躇いもなく身体を差し出した。
恋人と出会って恋人同士になったのは大学を卒業する半年前のことだ。彼は私のことを好きだと言ってくれた。私のどこを好きになったのかと問い詰めると、寂しそうなところ、という答えが返ってきた。そういうふうに言った男は今まで他にひとりも居なかった。私は相変わらず色んな男と遊んで、色んな男と寝るという生活を続けていたのだけど、それでも私は恋人とだけ恋人同士になった。
恋人同士にはなったけれど彼は私を安心させてくれる男ではなかった。何故なら彼は決して、私に対して、綺麗とか可愛いとは言ってくれなかったからだ。ただの一度でさえだ。だから恋人と居た頃の私は常に怯えていた。私のことを可愛いと言わない男は、私のことを醜いと感じているかもしれない。そんな考えが頭の中に常にあって払拭出来なかった。どうして私は彼を恋人にしたのだろう。適切な理由は今でも思いつかない。
どうしてあなたは私のことを可愛いって言ってくれないんだ。ある日私は業を煮やして恋人に尋ねた。すると恋人は表情を変えないまま「そんなことを言ったら、お前は俺のことを、お前の周りに腐るほど居る男たちと同じにするだろう」というふうに答えた。何を言っているのか理解できなかったが、彼があくまで私に対して、綺麗とか可愛いとか言ってくれる意思がないということだけは確認出来た気がしたので、私は彼と別れた。
恋人と別れてからも私はたくさんの男たちと遊んだ。少しでも多く容姿を褒めてもらうために私は男たちと遊んだ。男と会わずに週末を過ごすことがとても怖かった。私を可愛いと言ってくれる男と一緒に居ない時間は、誰かから醜いと罵られる可能性を孕んでいる時間だと思っていた。どうしても男たちと会えずにいる時間は、何人かの男にメールをばらまいたり、電話したり、彼らのためのプレゼントを購入したりして過ごした。或いは化粧品を買ったり、美容室に行ったり、ファッション雑誌を読み漁ったりもした。綺麗。可愛い。そう言われるために全てを投げうった。実を言うとこの頃には、私はもう、すっかり疲れてしまっていたのだけど、そうすることを最早やめられなかった。
だから私は手術に踏み切った。整形手術を受けた。もしも自分で、自分自身を綺麗だと思えるほど、美しい顔になれば、他の誰かから姿形を褒められることがなくても、もう容姿のことで怯える必要はなくなるかもしれない。そう考えたからだ。手術では目の大きさと形を違うものにした。コンプレックスだった一重瞼と低い鼻を直した。それ以外にも幾つかの個所を弄った。手術を終えてからの数カ月は顔中が腫れてしまい外出することも出来ず、自分の部屋の中に引き籠って過ごしていたのだけど、これまで容姿に悩み続けていた時間を考えるとほんの一瞬に思えた。事実、私は腫れが引くのを待っている間、男たちと一切の連絡を取ることなく過ごすことが出来た。やがて腫れが引くと、私は美人になった。
夜景の見えるスイートルームに泊まった。室内の蛍光灯は消されており幾つかの間接照明がぼんやり灯っている。キングサイズのベッドの上で私は耳を澄ませた。すぐ隣では若い実業家の男が寝息を立てていた。私も男も何も着ていない。つまりそういうことだ。
私は寝返りを打ち窓の方に目を遣る。窓のカーテンは開け放されており星空を夜に落としたかのような無数の光が見えた。大きな音を立てないように、気を付けながら身体を起こしてベッドの上から降りた。化粧台の鏡の前に立つと、そこに映っている自分の顔をまじまじと見つめた。大きな目。二重の瞼。高い鼻。美しい顔だし、かつて私がコンプレックスに感じていたものたちはどこにも見当たらない。
ただ、化粧が少し濃すぎるような気がした。まるで化粧を覚えたての週末の中学生みたいだ。整形してから結構時間が経ったが、私はまだ、この顔に最適な化粧を施せない。だからといって以前の顔がどんなふうで、どんな化粧をしていたのかを思い出すことも出来ない。
私は小さく笑った。
床の上に置いた鞄から携帯電話を取り出し、液晶画面を弄って、ずいぶん前に別れた恋人の連絡先を探した。