表現の自由とか作家の傲慢とか世界への敬意

仕事の中でアーティスト寄りのひとを取材する機会が結構あるのだけど、その中で「創作における表現の自由はどこまで許されるのか」みたいな話題が出ることは結構多いので、自分の考えを整理するという意味でもここに書こうと思う。

性的な表現や暴力的な表現に対して「傷つくひと。不快に思うひとが居るので規制するべきだ」という意見は結構あるのだけど、これは基本的に的はずれだなと思う。

何故なら「誰も不快にしない表現」なんてものが存在しないからだ。

家族に対するトラウマを持っている友人は平和で暖かいホームドラマを見ても苦しい気持ちになる。ショベルカーやクレーン車を見て”性的に興奮”するいわゆる対物性愛と趣向を持った知人だって居た。そういうひとたちが実際に存在してる以上、ひとを不快にさせる可能性や性的に興奮させる可能性というのはアンパンマンからアダルトビデオまでありとあらゆる創作物が大なり小なり内包しているわけだ。

「不快になるひとが少ないなら許されるが多いならば許されない」という話になるとマイノリティの迫害になっちゃうので、人数の問題にするのもまた違うと思う。
だからといって、じゃあひとりでも不快にさせる可能性がある者は作っちゃいけないか? っていうことになると。あらゆる創作物が作れなくなるので、それも窮屈だ。

よって「誰かが不快な思いをするからこういう作品は作ってはいけない」という縛り方をするのはやっぱり違うのだ。「これも誰かを傷つけるのだろう」という意識は持っておく必要があるけど、基本的に作品の中では何をやっても良い。

だたし。
「何をやっても良い」なんてそんな神の如き傲慢が許されるのはあくまで作品の中だけだよっていうのも忘れちゃいけないところだ。どんなに孤独な作家であっても厳密には自分一人で作品を作るなんて出来やしないのだから。

作家といえども人間なので0から1を生み出すことなんか出来ない。傍から見たら0から1を作っているように見える作家であっても、実際にはその1というのは、目には見えない0.1を周囲から集めて組み立てただけにすぎない。自分が見たものとか、出会ったひとだとか、触れた作品とか、自分以外のものの影響を必ず受けている。1を作るためのいろんな0.1を色んなものから享受した上でものを作っているのだ。

なので作品の世界の中では何をやっても良いけど、作品の外では、自分に0.1を与えてくれるすべてのものに敬意を持たなきゃいけないなと思う。

実在するイヤな奴を作品の中に登場させて酷い目に合わせたって別に構わない。だけどそれをする以上は、現実の世界で、そのイヤな奴に対しても敬意を持つべきだ。だってそいつがイヤな奴でいてくれたからこそ自分の作品がより良いものになるのだから。別に好きになれともいわないし仲良くしろともいわないけど「こういうひとも居るんだな」という敬意は必要だと思う。

大げさではなくこれまで出会ったすべてのものに0.1(僕は普段”絵の具”と呼んでるけど)を貰って、僕らはモノを書かせてもらっているのだ。それを忘れたら良い作品なんか書けやしないだろう。

破片の男
さっきこの場所で親に虐められた子どもが泣いてたんだ。これはその子どもが落としていった破片さ。あんたはそう言うとその破片を自分の腕にぐさりと突き刺した。
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