十一月中旬のある朝。起きた娘をベビーベッドから降ろすとハイハイできるようになっていた。それまで練習を重ねてきたことは知っていたのだけど初めて成功したときにはやっぱりびっくりした。すごいじゃん! すごいじゃん! と朝っぱらから僕のほうがはしゃいでしまう。実際にすごい。練習したことが実を結ぶ瞬間というのは年令を問わずにすごいことだ。尊敬しないといけない。一度できるようになってしまえばあとはどんどん上達するばかり。数日後には僕の太ももぐらいなら簡単に乗り越えていけるようになっていた。
前年の同じ時期は妻のお腹が膨らんできて手を添えれば胎動がわかるようになっていた頃で僕は仕事でラグビーワールドカップの記事を多く扱っていた。優勝した南アフリカ代表キャプテンのコリシ選手が決勝戦後のインタビューで語った「私の家族は貧しかった。だが愛は与えてもらった」という旨の台詞が印象に残っている。
このサイトでやっている個人向け掌編小説サービス「あなたのショートショート」でも夏頃に同じニュアンスで印象に残ったせりふがあった。そのときのお客さんは酷くしんどい経験をしてきたにも関わらず「生きよう」という姿勢がとても強いひと。その理由を訪ねると「自分には家族から愛されてきた記憶がありますから」と答えが返ってきた。
自分は親として娘に何を与えられるだろうか。何不自由なくというわけにはいかないかもしれない。欲しい物ぜんぶはあげられないかもしれない。だけど「自分は愛されてきた」という思いだけはいつでも持てるようにしてあげたいなと思う。